七月八日(水)乙酉(舊五月廿三日 曇りのち雨

 

日中、讀書。丸谷才一さんの『笹まくら』(新潮文庫)を讀み終はらしました。が、どうも一氣には讀めない作品でした。その理由の一つが、過去と現在とが、「一行アキなどが設けられることなく」、いつのまにか行き來してゐるところですが、それは作者の考へといふか著作の意圖がにじみ出てゐるところのやうです。

以下、川本三郎さんの解説を引用しながら復習します。まづ、この『笹まくら』は、「現代文学のなかでも、きわめて特異な、そして孤高の栄光を持った作品である。・・この小説が異色なのは、何よりも、主人公が第二次世界大戦における徴兵忌避者に設定されていることだ。国家からの逃亡者である」。

もうこれだけでスリリングですが、それを英雄扱ひすることなく描いてゐるところに、ぼくは共感といふか、他人事ではない切實感を覺えたのでありました。

「杉浦健次(主人公の變名)は、日本中を旅する」。その逃亡生活が細部にわたつて書かれてあるのが、魅力的で面白いのですが、しかし、「『笹まくら』は、実は、浜田庄吉(逃亡者の本名)の戦後の生活が半分を占めてい」て、このはうが、實は讀むのに辛かつたです。

「せっかく徴兵忌避に成功し、平和な時代に帰還したのに、彼の心は弾まない」。自分の居場所がないんです。「大学での(職員の)仕事も息苦しい。他人の生活を覗きこむような人間ばかりが集まった職場は、まるで〈もうひとつの軍隊〉のように思えてくる」。

そして、〈もうひとつの軍隊〉のやうな生活を、これまた細部を描くことによつて、「戦前と戦後はどこかでつながっている。連続している。戦前的なるものが戦後の日常に見え隠れしている」。過去と現在とを、「一行アキなどが設けられることなく」、描いたのは、實はこの事を言はんがためだつたのだと腑に落ちるのであります。

丸谷さんは、ご自身、子どもの頃から「軍人嫌ひ」だったと書いてゐますが、昭和二十年三月、十九歳のときに招集を受け、山形の連隊に入營してゐます。どうにか八月十五日をむかへたとき、敗戰の放送はとても聞こえにくかつたやうですが、丸谷さんは、その内容を上官に問はれて答へたところ、そんなはづはないと、その場で死ぬほど毆られ蹴られたさうです。丸谷さんの軍人嫌ひは決して的はづれでも偏見でもなかつたのです。

川本三郎さんが、「そういう軍隊嫌いの青年が、国家権力の前でどうしようもなく兵隊に取られていく、そのときの絶望はどれほどだったろう」、と書いてゐるやうな、そのやうな靑年たちが今後現れるやうな時代になつていくのだらうか。自民、公明、維新の腦みそが輕くて腹黑いやからが、理不盡な權力横行をたくらんでゐるのを、ぼくたちはどうしたら阻むことができるのだらう。

 

今日の寫眞・・丸谷才一さんの『笹まくら』(新潮文庫)と『コロンブスの卵』(ちくま文庫)。後者には、「徴兵忌避者としての夏目漱石」 が掲載されてゐます。これは題からして刺激的ですね。これから讀んでみます。

 

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