七月卅一日(金)戊申(舊六月十六日) 晴、蒸し暑い

 

今日は、「安全保障関連法案に反対する学者の会」と、「自由と民主主義のための学生緊急行動 シールズ」の抗議活動に參加するために、國會議事堂に行きました。夕方六時、いつもの永田町驛を出たら、ちやうどデモ行進がはじまるところだつたので、最後尾について、ぼくも行進に参加しました。ところが、聞くところによると、裏手の砂防會館ですでに抗議集會がおこなはれ、その後のデモだつたやうなのであります。しかも、デモ行進は、ぼくが入つたグループだけではなく、串に刺した團子のやうに、前後に、斷續的に延々とつづいてゐたのであります。

抗議集會の方は知らなかつたので、ちよいと後ろめたかつたですが、行進だけでもと思ひ、「憲法を守れ!」と、「安倍はやめろ!」のシュプレヒコールには、ぼくも及ばずながら聲を張り上げましたです。はい。

それにしても、みなさん靜かなんです。ほとんどが個人參加のやうなのです。友人、知人とともに來られてゐる方もをられましたが、ぼくには、黙々と、ひとり一人がそれぞれの思ひと決意をもつて、きつとやむにやまれず參加したんではないかなと思ひました。

ぼくは、グループの最後尾についたと言ひましたが、行進するうちに、一人加はり、二人加はりして、しばらくすると、後ろにたくさんの方が一緒に歩いてゐるんです。これは本物だなと思ひましたね。

 

今日の寫眞・・デモ行進の樣子を寫眞の流れにそつて説明します。まづ、國會圖書館前交差點から歩きはじめ、參議院と衆議院の裏口を通り(國會議員が何だか挨拶してゐました?)、茱萸坂(ぐみざか)と潮見坂を下つて日比谷公園まで行きました。でもここで解散ではありません。野外音樂堂ぐるりと左にめぐつて、霞門を出、そこから議事堂まで、また行進です。さつきは下りでしたが、こんどは霞ヶ關坂を上りながらの行進です。もう、汗が噴き出してきました。まあ、先日の安土城跡ほどではありませんでしたが、お年寄りもがんばつてをられるのに、ぼくは恥づかしかつたです。

議事堂前の交差點についても、押し合ひ壓し合ひでひとところにゐられません。七時過ぎになると、學生なんでせう、やつと挨拶とシュプレヒコールが長々とつづき、そして、學者の方のアピールが行はれました。その時、すでに七時半を過ぎてゐたので、ぼくは、國會圖書館前から新橋驛行きのバスに乘つて歸路につきました。そのバスから議事堂前の樣子を一枚撮りました。

それと、デモ行進中にいただいたプラカード。早稻田大學のでしたが、くれた女性が、いや、どの大學といふ問題ぢやあないんです、といふので、ぼくは氣持ちよく手にして歩きました。

また、見知らぬ女性から、驚いたことに、「長州」ならぬ、『長周新聞』をいただきました。いやあ、あの、六月廿九日(月)の日記を思ひ出しました。

「のう、泰彦はんや、ええが、犬死はするでねえぞ。侍は犬死するものでねえすけの。チョウスウのため死んだどて、どもならねすけの」・・・

「あっ!」 泰彦が叫んだのは、問題が突然解けたからである。祖母が言った 「チョウスウのため死ぬのはやめれ」 の 「チョウスウ」 とはつまり長州ではないか。長州のため死ぬのはおよし、それは犬死だからと、八十三歳の老婆は出征する孫にさとしたのではないか。》(丸谷才一著「秘密」(『にぎやかな街で』(文春文庫)所収)を引用し、さらに、「今また憲法を無視して、日本を戰爭できる國にしようとしてゐるのが、長州から選出された總理大臣、A級戰犯岸信介の孫である安倍首相であります。そのかつてのチョウスウそのものの首相に、ぼくたち國民は、またまた死ぬやうな目にあはされさうになつてゐると思はざるを得ません。」と記した、その「チョウスウ」ですが、それが、「長周」となつてゐたんです。しかも、内容は、我が「東京新聞」より過激さうですよ!

はい。この新聞を見て、ぼくは、山口縣がすべて 「チョウスウ」 であるなんていふ偏見は捨てましたです。以上。

 






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