八月廿日(木)戊辰(舊七月七日 雨

昨夜から、ワード版止まりになつてゐた『歴史紀行』を、册子版にするために取組はじめました。なんと、五月の 「北國街道を往く」 から手をつけてゐなかつたので、冊數にして七册も溜めてしまつたことになります。とほほですね!

でも、何ごともはじめの一歩が肝心です。はじめてしまへばいいのです。と思つて開始しましたが、しばらく作業をしてゐなかつたので、いろいろと手こずり、特に、表紙ともくじのレイアウトのところでつまづゐてしまひました。

そのおかげで、今日の作業は順調に進みました。きつと、册子版(パワポ版)でなけりやいや、といふ方もをられると思ふので、次の旅が行はれる九月のなかばまでには完成させたいなと思つたしだいであります。

 

また、昨日、淺草から東武電車で歸つてきたのですが、とある驛で窓の外をみると、そこは東向島驛でした。が、その驛名表示に目をやると、隅に「旧 玉の井」とあるではありませんか。地名や驛名を變へた最惡の實例だなと思ひつつ、どういふ連想でか、永井荷風を思ひ出したのです。

そこで、歸宅後、永井荷風の本を探しました。『斷腸亭日乘』以外はすべて文庫本で、十數冊ありました。それを、ぼくは、それぞれ書かれた年を確認し、順番に竝べてみました。すると、ほぼ明治から大正、昭和、そして戦後にわたつての流れが見えたのでした。

これはぼくの癖でもありますが、どうせ讀むなら、書かれた順番に、つまり作者の生き方とその思考の流れに沿つて讀むのが最良です。作品そのものを讀むためだけではなく、作者の人生を學ぶ、その必然性が生まれてくるからです。

案の定、昨夜寝しなに讀んだ、手元にある最も古い 『西遊日誌抄』(春陽堂文庫 昭和七年九月発行) は面白かつたです。永井荷風が、明治三十六年(二十四歳)に渡米し、明治四十一年(二十九歳)に歸朝するまでの日記です。もちろん創作の部分もあるでせうが、前から疑問に思つてゐた、何故渡米したのか、どうして仏蘭西にまで足をのばしたのか、そのいきさつ、そして歸朝したことの理由が、すべて實業家であつた父親との葛藤から發したことであつたことがたいへんよく分かりました。

その五年間は、要するに、實業家になることを強制する父親の援助下にありながら、いかに自分の欲する世界に生きることができるか、葛藤の日々そのものだつたのであります。

「明治三十九年七月十日 そもそも余が父は余をして將來日本の商業界に立身の道を得せしめんが爲め學費を惜しまず余を米國に遊學せしめしなり。子たるもの其恩を忘れて可ならんや。然れども如何せん余の性情遂に銀行員たるに適せざるを。余は寧ろ身を此の米國の陋巷にくらまし再び日本人を見ざるにしかじと思ふ事なり。イデス(華盛頓で知り合つた娼婦)はやがて紐育に來りて余と同棲せんと云ひしにあらずや。余は娼家の奴僕となるも何の恥る處あらん。かゝる暗黑の生活は余の元來嗜む處なるを。」

どうでせう。この言葉は、荷風その人のその後の人生とその作品を言ひ盡くしてゐるではありませんか。

かうして、結局、父の斡旋で勤めた銀行を解雇され、歸朝となるわけです。

それにしても、紐育(ニューヨーク)でもしかり、仏蘭西(フランス)でもしかり、文學は讀み放題、本場の歌劇場や音樂會に入り浸りなんです。それらすべてを列擧したら、だれもが羨ましくて氣がふれてしまふでありませう。例へば・・

「明治三十九年十一月三日 仏蘭西の音樂家カミル・サンサン此夜カアネギイ樂堂に演奏會を催す由聞きたれば馳せ赴く。

十一月十日 雨降りて悲しき日なり。カアネギイ樂堂に紐育シンフニイの演奏を聽く。

十一月十七日 十三丁目の劇場にマンテル一座のマクベスを看る。

十一月廿六日 紐育メトロポリタン歌劇場いよいよ初日となる。巴里(パリ)のオペラより招聘せられたる俳優此の夜グノオの歌劇 「ロメオ、エ、ジュリエツト」 を仏蘭西語にて謠ふ。

十一月廿八日 メトロポリタン劇場にタンホイゼルを聽く。

十一月廿九日 謝恩祭なり。午後、バーナードシオーが作シーザーとクレオパトラを看。 

十二月五日 歌劇リゴレツトを聽く。Viva Verudi !

十二月八日 歌劇ファオウストを聽く。」

まあ、これだけにしておきませう。そしてです、歸朝したあとがどうなることでせうか。つづいて、『新歸朝者日記』 を讀み進んでみたいと思ひます。

 

今日の寫眞・・『西遊日誌抄・新歸朝者日記』(春陽堂文庫)と『日和下駄』(同)。それに、今日の氣になつた東京新聞の切り抜き。 



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