九月十六日(水)乙未(舊八月四日 小雨降つたりやんだり

 

「中仙道を歩く」旅が三十回目を迎へました。最終回となる譯ですが、あいにくの空模樣、雨が降つたりやんだりでしたが、こんなことでひるむやうな參加者はをりません。參加者は二十八名、リーダーは檜垣さん、サブリーダーが山寺さん、總勢三十名で歩きはじめました。

 

ついに中仙道から東海道に入りました。しかしこのまま中仙道として旅を續けます。

ニ泊三日の初日です。新幹線を降り、米原驛からはバスで南草津驛まで行き、まづは驛前で晝食をいただきました。

スタート地は、國道1號線の矢倉南交差點。その野路一里塚跡である公園でストレッチをした後、本格的に歩きはじめました(註一)。幸ひ街道は國道から離れた舊道をたどりました。最初に現れた不思議は、普通の民家の塀の上から顔を出してゐた説明板でした。それによると、なんと平淸宗胴塚がこの塀の中にあるといふのです。が、覗いた限りは見當たりません。それにしても、淸宗の胴塚は、父親の宗盛とともに鏡の宿のはづれにありましたのにどういふ譯なんでせう。しかし、一行が進み出したので、思考を中斷せざるを得ませんでした。

 

ゆるやかに左右に曲がりながらたどる住宅地の道は、たしかに舊道をしのばせます。つづいて現れたのは、野路の玉川跡でした。泉が今なほ豐かに湧いてゐる、旅人にとつてのオアシスだつた所のやうです。さらに、辯天池と稱する何やら由緒ありげな池の脇を通過すると、古い家竝みの途中でしたが、いきなり草津市と大津市との境界を示す小さな目印としか言へない表示に出くはし、みなさんとともにずつこけてしまひました。

ぼくは瀨田川が市境かなと思つてゐたので、これは意外でした。が、またこのあたりが、月輪村といひ、あの月輪殿九條兼實の莊園であつたことに由來してゐると知つて、これにもびつくり。いや、ぼくの無知を驚くべきかも知れません。莊園は平安貴族の生活基盤であつて、莊園に支へられたその社会構造を知らなくては、平安時代を學んだことにはならないことに氣がついたからであります。

つづいて月輪寺の山門、といふには見過ごしてしまひさうな小さな門に遭遇しました。さらに月輪池のかたはらに東海道立場跡碑が見られ、まことに歴史が積み重なつたといふか、堆積した場所なんだなあと感心してしまひました。

一三〇番目の月輪一里塚跡で足を止め、やはり平安貴族の一人だつた大江千里が開拓したといふ、大江といふ地名表示の田舎道を進みました。そしていきなり左に直角に曲がつたかと思ふと、今度は右に直角に折れ、またまた左にといつた具合に舊街道はつづくのでした。

この近くに近江國廳跡があるとの案内板が見られましたが、寄り道は許されさうにありません(註二)。その代はりに、近江國一宮の建部大社に寄りました。祭神は日本武尊ですが、源頼朝が伊豆に流される途上に立ち寄つて、源氏再興の祈願を捧げた所として有名なのださうです。その神社を背にして歩み出すと、もう目の前が瀨田の唐橋でした。

 

瀨田の唐橋は、その歴史をたどれば、それだけで一冊の書物では収まりきれないほど歴史が豐かな所です。身近なところでは、例の俵藤太秀郷のムカデ退治の發端がこの唐橋でしたね。その掲示といふか説明板があるとものの本にあつたのですが、確かめる間もなく一同は橋を渡りはじめてしまひました。その點は非情なツアーです。ぼくは泣き泣き後を追つたのでした。橋を渡ると街道は商店街に姿を變へ、その先を右折してしまひます。ですが、左手を進んだ先には石山寺が、また眞つ直ぐに進んで行けば、芭蕉の幻住庵があるんですよね。ぼくのあこがれの場所の一つですが、あきらめざるを得ません。

さらに、木曾義仲とともに戰つた義兄弟今井四郎兼平の墓にも立ち寄れません。歴史が凝縮してゐるだけに心殘りの多い場所でもあります。

 

唐橋では休めませんでしたが、石山驛に立ち寄つて休憩しました。JR石山驛は京阪石山坂本線の石山驛とは竝んでゐて、乘りかへ可能なのが分かりました。こんど來るときには利用したいと思ひます。

實は、寄り道と思つたこの驛付近を舊東海道が通つてゐたやうで、ですから驛構内の跨線橋を越えて北口に出、そこから再び歩きはじめました。

大きな會社なのか工場なのか、そのフェンスに沿つて街道を進むと、右手の路地の先に琵琶湖が見えました。すると、今では晴嵐と呼ばれるこの付近が粟津ヶ原ですよとリーダーの聲が聞こえてきました。粟津中學校の前でした。

木曾義仲が討死した場所です。『平家物語』の「木曾最期」の場面を思ひ浮かべてしまひます。義仲については、『中仙道を歩く(廿・後篇)』(贄川宿~上松宿) で詳しく觸れましたが、思ひ出すだけでも目頭があつくなつてしまふ場面です。『平家物語』を一度目は讀書會で讀んだせいでせうか、あまり印象がなかつたんですけれど、先年再讀したときには、他のどの場面よりも、この「木曾最期」に感動しましたね。芭蕉をはじめ、芥川龍之介など多くが義仲贔屓なのがぼくはよくわかりました。

なんて思つてゐたらまた置いてきぼりをくつてしまひさうです。普通の町竝がじぐざぐとつづきます。そんな道端に、ちつちやな「膳所城勢多口総門跡」碑が建ち、その證據とも思へる枡形が歩み進むここかしこに見られ、まあ交通にはまことに不便な通りです。また、そこを自動車が遠慮なく走つてくるもんですから、あぶなくてしかたありません。でも、まだここは大津宿ではないんです。

御神木の大銀杏が聳える和田神社で一休みしました。ほつとして説明板に目を落とすと、「このいちょうは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標となっていたと思われます。石田三成が関ヶ原合戦後、捕われて京へ護送される途中、休止の際につながれた樹でもあると伝わっています」、とあつて驚きました。樹齢はおよそ約六〇〇年、樹高約24メートル、目通り周圍約4・4メートルあるさうですから、さもありなんですね。

まだ枡形がつづきます。なんだか嚴かさうな石坐神社の前を通過し、こんどは「膳所城北総門跡」碑のところをじぐざぐと進んだ先に、お待ちかねの義仲寺が見えてきました。

 

義仲寺では、ご住職がお寺のことを説明をしてくださいました。寫眞を撮りたいのをちよいと我慢してぼくも聞き耳をたてました。詳しくは、『中仙道を歩く(廿・後篇)』の十七頁にも記しましたから、ここでは省きます。その代はり、自分の目で義仲寺本堂の朝日堂と翁堂をたしかめ、さらに、「義仲公墓」と「巴塚」と「山吹塚」、それに「芭蕉翁墓」、それとたくさんの句碑をしかと確認してまゐりました。さう、翁堂の裏に、やはり義仲贔屓の保田與重郎の墓もありましたね。國の史跡に指定されてゐる義仲寺ですから、本來は個人の墓は許されないはづですが、そこはどうしたんでせう?

歸りがけに、賣店があつたので、そこでぼくは『芭蕉翁桃靑居士 終焉記』 の影印版を買ひ求めました。寶井其角が書いたものらしいですが、なんとか讀めさうです。 

義仲寺で今日の豫定は完了しました。雨がまたしとしと降り出したなか、近くの西武デパートの軒先まで急ぎ、そこでストレッチしてバスに乘り込みました。さう、五時到着で、一八六〇〇歩でした。

宿泊は、京都國立博物館の北側、東大路に面したホテル東山閣でした。小學生の團體が一緒でしたが、よほど大きなホテルなんですね、少しも氣に障ることもなく、快適に宿泊することができました。

 

註一・ここからは東海道經由の一里塚になりまして、その一一九番目の一里塚跡です。これを中仙道の順で數へると一二九番目に當たりますが、ここで誤差があることは承知しておきたいと思ひます。ちなみに、中仙道が東海道より十里、つまり四十キロばかり距離が長いことが分かります。

註二・近江國廳跡とは、奈良・平安時代の國衙(こくが)跡です。

 

今日の寫眞・・瀨田川の唐橋にて(永田さん提供)と義仲寺門前にて。

 


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