九月十七日(木)丙申(舊八月五日 雨降つたりやんだり

 

今日は二日目、三條大橋をめざして歩いてきた「中仙道を歩く」旅の最終日を、有終の美で飾れるかどうかといふ記念すべき日です。八時にホテルを發ち、大津の西武百貨店で準備體操後、ちやうど九時に歩きはじめました。義仲寺の前を、今朝は通り過ぎ、再び人家が建て込んでゐる路地のやうな街道をたどりました。

昨日は、石山驛を過ぎてからといふもの、京阪電車の踏切を何度も渡りました。それだけ街道がじぐざぐに縫ふやうに進んでゐるからでせう。今朝も石場驛近くの踏切を越えましたが、この右手一帶が打出濱と呼ばれたところのやうです。たしかに、かつてはもつと琵琶湖は人家近くまで迫つてゐたのでせうね、そんな佇まひを感じさせるところです。それと、このあたりに一三二番目の大津(石場)一里塚があつたやうですが、ここも滋賀縣の他の例にもれず、跡形もなく痕跡も見られません。忘れましたが、一三一番目の鳥居川(粟津)一里塚が粟津ヶ原あたりにあつたさうですが、どちらも歴史から消えてしまつたといふしかありません。悲しむべし悲しむべし。

いきなり、みなさん左に曲がりました。その角に、「蹴鞠之神社」と刻まれた石柱が建つてゐます。しばらくすると、鳥居が現れ、こんどは石段を上りました。いやあ、眺めがいいです。かつては湖畔に聳えてゐたんではないでせうか。その平野神社が、蹴鞠之神社とは?

 

街道にもどり、さらに行くと、少し町竝が上品になつてきました。大津宿に入つてきたからでせうか。町の名も「京町」にかはり、商家やビルも目立つてきました。ある交差點から左に目を向けると、滋賀縣廳の特徴ある建物が見えました。また、薄暗い建物の角に、「此附近露國皇太子遭難之地」碑が、建つてゐましたが、これは歴史の波に溺れるのをからうじてまぬがれてゐるやうな按配で、建物を背に身を乘り出して見えました(註)。

その先の電車通りが、札の辻で大津宿の中心部ださうです。ぼくたち一行は左に曲がつて東海道を上りますが、右に折れれば北國街道、西近江路とも北陸道とも呼ばれてゐた、琵琶湖西岸を北上する街道です。また、直進すれば、小關峠を越えて山科で再び東海道に合流するいはば脇街道ですね。

しばらくは、路面を走る京阪京津線に沿つて、ゆるやかな坂道を上つていきました。左に、本陣跡が見られましたが、線路が右の家々の間にそれて行くところからは、人家も少なくなり、また雨脚がいちだんと強くなつてきました。

 

東海道本線の上を跨ぐと、右側に京阪京津線の踏切をはさんで、關丸神社が現れました。平安時代初期の歌人で、「百人一首」にも選ばれた丸を祭神とする神社ださうです。踏切を渡り、木立に被はれて薄暗い境内に踏み入ると、あちこちに石碑が見られます。

入つたすぐ右には、「これやこのゆくもかへるもわかれてはしるもしらぬも逢坂の關 」といふ、有名な歌の歌碑が建ち、奥には、「せきのしみづ」跡(?)、本殿の左脇には、型といふ「時雨燈籠」、右脇奥には「小町塚」までありました。ただ本殿が、「音曲藝道祖神」とされる神社にしては朽ち果てる寸前のやうな荒れ方でした。

 

すでに大津宿をはづれましたが、まだ京都府に入つたわけではありません。しばらくは滋賀縣内を進みます。雨とともに、國道1號線をバス、トラックなどの大型車がひつきりなしに走り過ぎ、襲ひかかる水しぶきがあの木曾山中を思ひ出させます。あたりはまるで谿谷の谷底のやうです。上を名神高速道路が横切つてゐます。そんな坂道、といふより峠道なんでせうけれど、今までの峠のやうな風情はまつたくありませんね。我慢のしどころです。

そしてようやくたどり着いた峠の上に、大きな「逢坂山關址」碑がぼくたちを迎へてくれました。そばにはトイレのついた四阿風の休憩所があり、また、そのわきに歌碑がいくつか建つてゐました。ほつとして、やつとみなさんとお喋りをかはす餘裕が出てきました。

さあ、こんどは下り坂です。國道からはづれ、茶屋と呼んでもいいやうなお店が何軒もならんでゐます。氣持ちよく歩きはじめると、なんとそのお店がみな鰻料理屋ではありませんか。いやあ、このあたりは水が豐富だから養殖にいいとか、そんなことはどうでもいいですから、食べてみたかつたですね!

 

京阪京津線大谷驛の先で、また國道沿ひの道にもどつてしまひました。兩側を山にはさまれた谷間の右手には、名神高速道路と京阪京津線と國道1號線が平行して走つてゐます。その騒音にも疲れてしまひますが、滴り落ちる雨のために、氣分までじめじめしてしまひます。が、左手の山の陰の、こんな薄暗いところにも、「大津算盤の始祖碑」だとか、月心寺だとかが見られ、それに跡形もなくて見られませんが、一三三番目の大谷(走井)一里塚があつたところのやうです(東海道としては一二三番目になります)。

ふと、思ふのですが、このあたり、古いものを大事にしようとしてゐる氣配はあるんですが、それと同時に大膽に切りくずして新しいものを造つてしまふやうなところが感じられるのですよね。關西といふところがさうなんでせうか。ぼくにはどうもなじめないです。

 

やつと谷間から出られたやうです。再び民家に挟まれた舊街道をたどります。どうせ挾まれるなら、山より民家のはうが心も落ち着くといふものです。

あれ、髭茶屋町なんていふところにやつてきました。「みきハ京みち ひたりハふしミち」といふ追分道標が見られます。直進すれば京都ですが、左に折れれば、伏見街道で、大阪へ向かふには近道のやうです。

おや、そこに、「柳綠花紅」と刻まれてゐます。なんだ、一休さんの詩ではないですか。なにやら謂れがありさうですが、宿題にしておきませう。また、隣には蓮如上人の石碑が建つてゐます。やたら宿題がふえても辛いところですが、これも心にとめておきたいと思ひます。

さらにゆるやかな坂道を下つていくと、右手に「閑栖寺」があり、門前と境内に車石が展示するやうに置かれてゐます。それで、石の形態がよくわかるのですが、要するに、轍(わだち)の跡なんですが、それを人工的に線路のやうに道路に敷いた石に刻み込んだ、その石といふわけなんです。荷車が道からはづれることなく通れるやうにしたんですね。

でも、これには二重の謎が秘められてゐます。一つめは、そもそも、江戸幕府は、どうして荷物を運ぶのに荷車を使用させなかつたのかということであり、また、なぜ此所にだけ荷車用の轍が作られたかといふことですね。さあ、また宿題がふえてしまひました。言ひ譯ではありませんが、先を急ぐのでこのくらゐにしておきませう。

 

こんどは、「三井寺觀音道」と刻まれた大きな道標が現れました。が、これは、先ほど通つてきた大津宿の札の辻から小関越えをしてくるとここで合流するその道標ですね。逢坂の關を大關として、こちらを小關なんてつけたらしいですよ。

さて、その先に「京都市」とありますから、この邊が境界なんでせうが、はつきりとしません。といふのも、谷間を出たあたりから、街道を挾んで右が滋賀縣、左が京都府だつたやうなんです。一歩踏み出したら境界を越えたといかないところがまことに齒痒いです。はい。

 

さうかうするうちに、見覺えのあるところにやつてきました。さうだ、「德林庵地藏堂」でした。『歴史紀行六 平安京編(二)』で、山科驛の北にある安祥寺と、仁明天皇の第四の宮である人康親王のお墓のある十禅寺を訪ねたときに、やはりここで休んだところだつたのです。地名の四宮は、この第四の宮人康親王に由來することを、そのとき知つたのでした。

また一段と雨脚がつよくなつてきました。わァ~、もうびしょ濡れですよ!

商店街となつた街道、ここは舊三条通と呼ばれてゐるやうですけれど、山科驛前を通過し、「右ハ三条通 左五条橋」と刻まれた「五条別れ道標」を左折しました。いや、五條に向かふのではなく、晝食會場へ寄るやうです。和食さと山科店です。どうしてなんでせうかね、やはりあまり食べられませんでした。だからといつて力が出ないといふ體ではなささうなのはすでに承知。午後もみなさんとともに頑張りました。

 

街道にもどり、舊三条通を進むと、食事した和食さとさんの前を走つてゐた縣道(府道?)一四三號線に合流し、そこでJR東海道線のガードをくぐりました。すると、此所も覺えがありました。天智天皇山科陵の入口です。道の向かふに、雨に煙つて「日時計」が見えましたが、どうもみなさんは氣がつかないまま、左手の脇の道に入つて行かれてしまひました。

中仙道・東海道の最後の峠、日ノ岡峠への入口です。自動車が一臺どうにか通れるといつた細い道でしたが、そこをまた何臺もの車が行き交ひ、いささかしんどい思ひをいたしました。が、その苦勞のわりには、どこが峠なのか、附近は人家が密集してゐますし、曖昧なまま下りはじめました。また、中仙道・東海道の最後の一里塚である、一三四番目(東海道では一二四番目)の日ノ岡(御陵)一里塚もこのあたりといふだけで、確かめやうがありませんでした。

そこでまた右側からきた府道一四三號線に合流し、山裾に沿つた道路を曲がりくねりして進みました。車石のモニュメントがありましたし、その先には、崖際のフェンス越しに、大きな「南無妙法蓮華経」碑が雜草の中に聳えてゐました。何だか確認できないまま歩いて行くと、たうとう蹴上の標識が見えました。あとわづかです。ゴールが見えてきた感じです。

左に地下鐵東西線の蹴上驛への入口が口を開け、向かひをなんとなくみると、レンガ造りのトンネルが見えました。えッ、どこへ通じるトンネルなのかなと思ひめぐらしてゐる間もなく、みやこホテルに沿つて大きく左に曲がり、ついにゴールへのラストスパートにかかつたのでありました。

ただ、雨は相變はらず降りそそいでゐますし、足も限界を迎へやうとしてゐます。神宮道との交差點を過ぎ、白川橋にたどり着いた頃には、しかし雨脚が弱まり、傘がいらないほどになつてきました。すると、みなさん、左に折れて白川沿ひを下つていきます。さらに路地に入つた奥に、明智光秀首塚があつたのであります。いやあ、こんなところに! ですね。

 

そして、ついに見覺えのある三條の川端通りが見えてきました。柳の木の下には、高山彦九郎がまだ土下座をしてゐました。もう天皇は此所にはをられないのですよ、と言ひたかつたです。まあ、歴史好きと稱する多くの方々も、歴史に對して、蛻(もぬけ)の殻を後生大事にしてゐるところなんか、同じぢやあないかと言ひたいですけどね。もちろん、氣が弱いぼくは口にする勇氣はありません。はい。

おおッ、三條大橋です。それに雨もやんでしまひました。もう、なんといふ幸ひ、感謝! 晴れやかな氣持ちで、みなさんと堂々と渡ることができました。雨だつたからでせうか、それほど人が出てゐません。弥次さん喜多さんの像の前で寫眞を撮りはじめたら、河原のはうから呼んでゐます。そこで、みなさんと、完歩を祝して記念寫眞を撮るのです。

横斷幕は、すでにトラベル日本さんで用意してあつたのですが、それとともに、同行した楓さんが、ご自分で書かれた横斷幕をお持ちくださつたので、喜びと感謝に滿ちて、再度記念寫眞を撮つたのでした。

 

日本橋から京都・三條大橋まで、中仙道六十九次、全行程約五三四キロを歩き通してきたんです。まだ實感がわきませんが、思ひ出はたくさん、はち切れんばかりです。きつと、一つ一つ思ひ出すたびに、果たし得た完歩の喜びと達成感が胸の内にじわじわとにじみ出てくるのではないでせうか。

ぼくは弱音を吐いてばかりゐましたが、同行のみなさんの多くはぼくよりご高齢でありまして、まことに恥ずかしく思つてをりますです。はい。

 

ところで、七條通り近くにあるホテルまでは歩いて歸ることになつてゐました。それを忘れてゐました。リーダーの檜垣さんが先導するといふので、ただ歸るよりいいと思つて、みなさんと一緒に歩きました。淸水寺を通つて歸路につく豫定ださうです。

まづ、先斗町通を下り、四條大橋を東に渡りました。このあたりからは、通勤ラッシュなみの人の波、掻き分けかき分け、みなさんを見失はないやうに、花見小路通に入つてさらに下り、建仁寺の裏手に出ました。そこを左折すると、見覺えのある安井金比羅宮のわきに出て、さらに二年坂、産寧坂を經て淸水寺に着くことができました。中に入つて見學しましたが、それは省き、歸路は、五條坂を下り、東大路通に出ると、一直線に下つてホテルに無事ゴールすることができました。なんと、三條大橋から八四八〇歩でした。さうだ、義仲寺から三條大橋までは二二九〇〇歩でした。忘れてはなりません。

夕食は完歩祝賀會でした。檜垣さんと山寺さんが、ひとり一人に「完歩証」とメダルをくださり、そしてまたそれぞれがひと言の感想を述べられました。どのお顔も晴れやかでうれしさうでした。もちろんぼくも大滿足でした。

 

今日の寫眞・・中仙道ゴールの京都三條大橋にて、二種。祝賀會にて。横斷幕を書かれた楓さん(左)と山寺さん・檜垣さん。それに「完歩証」。

 


コメント: 0