九月十八日(金)丁酉(舊八月六日 晴

 

中仙道を完歩した翌日の朝を迎へました。昨晩の完歩祝賀會は盛大に催され、思ひ出に殘る樂しく愉快なひとときでした。それでよく寢られましたけれど、まだ疲れが殘つてゐる感じは否めません。それなのに、京都觀光の名目で今日もまた歩かなくてはなりませんでした。

それが、不幸にも、同じトラベル日本さんではありますが、關西支社の方の先導だつたのです。また、そのリーダーは、若いときは登山家だあつたやうで、それに付き合はされて、實にまゐりました。悲劇と言つても言ひ過ぎではありません。檜垣さんや山寺さんだつたらもつと融通の利いた、樂しくも勉強になつた歴史散策になつたはづです。

ホテル東山閣は、京都國立博物館の裏て、東大路通りに面して建つてゐます。八時にホテルを發ち、七條通りに出て右折、京阪七条驛まで歩きました。懐かしい京阪電車です。けれども今日はよい思ひ出となるのでせうか、嫌な豫感を抱きつつ、電車でいきなり出町柳驛まで直行し、そこから死の行軍がはじまつたのでありました。

まづ、今出川通りを東にたどり、古本市で何度か來たことのある百万遍知恩寺の門前を通過し、京大のキャンパスを左右にながめながら、着いたのは哲学の道でした。白川通今出川といふ交差點です。その道に沿つて行くと、銀閣寺との分かれ道で、ここでしばらくトイレ休憩。そして、みなさんは、そのまま銀閣寺の門前を左折して大文字山の火床をめざして進んで行かれました。

といふのは、ぼくは、ちよいとまた靴ずれが出來つつある徴候があり、體にも自信がなかつたので、他の二、三の方とともに先ほどのトイレ前で待つことにしたのです。結果的にはそれでよかつたでした。まるで登山道を登つて下つてくる、それだけだつたからです。西方の眺めがよかつたと言つてゐましたが、西方淨土は最後の最期で十分、待機してゐてよかつたです。それと待つあひだ、一時間三十分くらゐあつたでせうか、東山慈照寺(銀閣寺)や近隣を一人でゆつくり見て回ることができたのも幸ひでした。あッ、お店の縁臺でたべたソフトクリームがなんとも美味しかつたでした。それも二百圓でした。

さて、行軍はここから本格的にはじまりました。鹿ヶ谷疏水分流沿ひに哲学の道を一路南下。俊寬僧都山莊跡への入口を、訪ねるでも説明するでもなく通過し、大豐神社の鳥居を右折して、晝食會場のホテル平安の森に到着してしまひました。まだお晝前でしたからでせうか、ぼくはもう食欲がなく、「京の湯豆腐膳」の、それでもおかずだけはどうにか食べることができました。けれど、肝心の湯豆腐は、妻が出してくれる方がずつと美味しいと思ひました。

 

晝食後は、哲学の道まではもどらず、鹿ヶ谷通りを南下し、その途中、南禅寺の三門に立ち寄つて見學することができました。大きな門です。秋の紅葉の季節だつたら素晴らしいだらうなと思ひを馳せたのでありました。

さあ、ラストスパートです。といふのは、後になつて氣づいたことですが、何しろ先を急ぎました。南禅寺を後にして、西に向かふと、琵琶湖疏水のインクラインに出くはしました。その下流といふのか、麓と言つたらいいのか、流れが下り落ちたところの南禅寺橋を渡り、インクラインに沿つて坂を上りました。なんてことはない、昨日中仙道(東海道)をやつてきた蹴上の分岐點に出たのでした。昨日はこのあたりが一番の大雨でびしよぬれ、あたりを見回す餘力もありませんでしたし、人一人見かけませんでした。が、今日は晴れわたり、多くの觀光客であふれてゐました。

そこは三條通ですから、また三條大橋まで歩くのかなと思つてゐると、右手の細い脇道に入つて行きました。粟田口の鳥居町といふところです。狹い町竝をずんずんと歩き、出たのは岡崎通でした。そこをこんどは右折し、つまり北に向かひました。平安神宮は行かないと言つてゐましたから、どこに向かつてゐるのか分かりません。すると、目の前に橋と川が目に飛び込んできました。先ほどのインクラインの下流の白川のやうです。でも、お城のお堀のやうにも見えます。

そこをいきなり左折し、ふと見上げると、對岸に派手派手しい朱塗りの大きい鳥居が見えるではありませんか。なんだ、平安神宮にも行くんぢやあないかと思ふ間もなく、鳥居前の交差點を左折。いやあ、もう何を信じたらいいのやら。つづいて神宮道を南に行軍しはじめました。觀光客で溢れてゐます。何を喰はせるのやら理解しがたいやうな食べ物店が並びに並んで、どこもかしこも若い男女や外人でごつたがへしてゐます。

でもぼくらは眞面目に行進に專念、食べ物屋の匂ひや女性の化粧の匂ひにも誑かされることなく進みました。靑蓮院の前と知恩院の門前でちよいと立ち止まり、つづく圓山公園でトイレ休憩。さらに、八坂神社の境内を東側から入つて南にぬけて下河原通を一途に南下。樂しみにしてゐた西行庵も高臺寺も素通りし、急に細くて賑やかな路地に突つ込んだら、その突きあたりが昨日三條大橋から辿つてきた八坂通でした。左に折れれば二寧坂と産寧坂を經て淸水寺ですが、ぼくたちは右に曲がり、八坂通を眞西に向つて進みました。せめてもと八坂の塔を振り返りつつ歩きました。

 

ホテルへとつづく東大路通を横斷し、さうだ、この先にあの小野篁像と閻魔像が竝んで安置されてゐる六道珍皇寺に寄つてもらへるのかなといふほのかな願ひも無視されて、ゆるやかな坂道つんのめるやうに進むと前を遮るものがあります。なんだ、手をつないだアベックがのんびり歩いてゐるぢやありませんか。蹴飛ばすわけにもいかず、交差點でどうにか追ひ抜くと、頭も熱くなつて、ただ足を動かしてゐるだけの自動人形のやうな自分に氣がついて、これはまづいと思ひました。

するとみなさんが立ち止まりました。建仁寺の門のやうです。昨日、祇園花見小路を南下してぶつかつたのが建仁寺の裏門の一つでせうから、その南門にしてはこじんまりし過ぎてゐましたが、一應一枚撮影をしておきました。さらに、この先を進んだら鴨川に出てしまうのではないかと思ひはじめたところで突きあたり、最後の難關、大和大路通を南下して進みました。大路にしては古い民家に挟まれた道です。太陽が眞上から照らしてゐますから、いくら水分を補給しても汗は流れ放題、體力は限界に近づいてゐます。

と、いきなり廣々とした通りに出ました。いや、これこそ大和大路と呼ばれるにふさはしい道路だなあと、氣持ちまで豐かになつたところで、みなさんとともに、左の歩道に上がりました。するとそこで、巨大な石垣に遭遇したのです。城壁を思はせる構へで、ここでガイドさんの聲が急に飛び込んできて、豊臣秀吉創建の方廣寺の石垣だというのです。その先は、しかし、豐國神社でした。境内では古道具市が開かれてゐて、しぼんだ心がふくらむやうでしたが、それも素通り、正面には、これが有名な唐門なんでせうか、金ぴかの豪華な門が建つてゐました。が、何に? 豐臣秀吉を祭神に、明治元年(一八六八年)に創建されたといふのですから、裏切られた氣持ちがしましたよね。もとは方廣寺の境内だつたところに建てられた神社だと言ひます。

問題は、その境内の北側、つまり方廣寺に建つ鐘楼でした。文禄四年(一五九五年)に、豐臣秀吉が大佛を安置するために創建した方廣寺の鐘楼です。ぼくも話には聞いてゐましたが、目にするのははじめてです。

方廣寺大佛殿は、しかし、創建數年にして遭遇した大地震で崩壊し(秀吉がこのとき大佛のかはりに本尊としたのが例の善光寺如來でした)、秀吉の死後、慶長十九年(一六一四年)、それを秀頼が再建した際に建てられたのがこの鐘楼でした。ところが、鐘の銘に、「國家安康」「君臣豐樂」と刻まれた句が、「德川氏を忌む文言、家康を両断する意図があり、豊臣を君として楽しむという意だ」、と家康にいちやもんをつけられ、大坂冬の陣の發端となつた、その鐘だつたんです。

これで今日の行進は終了。鐘楼前でストレッチをしたあと、東隣にあるホテル東山閣にもどりました。ホテルからホテルまで二一九〇〇歩でした。なんと、昨日と一昨日それぞれ歩いた歩數とほぼ同じでした。

 

今日は、國會で、「安全保障関連法案」が可決されてしまうかどうかといふ緊迫した情勢でした。旅に出る前には、國會議事堂前の抗議行動に行くべきか、中仙道に參加すべきか、そんなに迷はないで中仙道を歩いてしまつたんですけれど、忘れてはゐませんでした。

京都驛で、無事歸ることが出來たことを妻にメールで報告しましたが、その返事が次のやうな文面だつたので驚きました。

「たいへんご苦労さまでした。私は二時間ほど国会議事堂前に行って来ました。ほとんどおじさんおばさんです。夜に向かって続々増えはじめていました。」

うはァ、ぼくの代はりに行つてくれたのでせうか。早く歸つてほめてあげたいと思ひました。それなのに、川野さんと楓さんと三人で、上野驛で美味しいお壽司をいただいてしまひました。

 

今日の寫眞・・銀閣寺にて二枚。南禅寺三門。それに方廣寺の鐘楼です。

 



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