十月六日(火)辛亥(舊八月廿日 晴

 

今日から明日にかけては、トラベル日本企畫、「第二回北国街道ハイライト 加賀街道編」の旅であります。まだ、中仙道の旅の余韻芬々のぼくとしては、氣持ちを裂かれる思ひなのでありますが、與へられた好機をのがしては沽券に關はりますです。はい。

第一回は五月に、善光寺の御開帳にあはせて行はれたので、すでに五ヶ月もたつてしまひました。つづけての旅とすれば、間が開きすぎた感じは否めませんが、まあ、一つ一つ完結した旅と思へば違和感はありません。むしろ、氣を取り直して、新たなる歴史的世界に挑戰したいと思つてをります。

それで、今回は、「加賀街道編 高田宿~金沢宿」といふことですが、日程表を見た感じでは、これまた今まで通りの宿場をたどりつつ歩む旅とは異なり、人それぞれの受け止め方にもよりませうが、まるで觀光地めぐりの旅のやうなのであります。それらがどのやうな歴史を秘めてゐるのか、もちろん興味津々、樂しみにして臨んだことはいふまでもありません。

 

第一日目の今日は朝から晴れわたり、先月の中仙道のいたつて沈鬱な出發とは異なつて、氣持ちも晴れやかに我が家をあとにしたのでした。

まづ、この春に開業した北陸新幹線を利用し、その名も《はくたか號》に乘つて、上越妙高驛までまゐりました。ぼくは上野驛からの途中乘車、大宮驛から七名乘車の方も含めて、參加者は二十九名、添乘員はベテランの山寺さんでした。講師の岸本豐先生は、長野驛で合流し、二つ目の上越妙高驛で下車、総勢三十一名はそろつてバスに乘り込みました。このバス、金澤に營業所を持つ觀光バスといふことで、とても大きくゆつたりとして、乘り心地もよかつたです。

 

さて、バスは、「日程表」にそつて、まづ春日山城跡に向かひました。途中、さつそく岸本先生の解説がマイクから流れ、今左折してゐるこの道路を直進したところが高田宿ですよといふアナウンスでありました。次回はこの高田宿が出雲崎へのスタート地点といふことになります。

次ぎに説明にあがつたのは、通りすがりでしたが、左手の日本スキー發祥の地と、右手遙か遠くに見える米山でした。「米山さんから雲が出た」といふ、あの歌に出てくる山らしいのですが、九九三メートルの高さがあり、飛鳥奈良時代には、蝦夷との境とされた山でもあり、そのため、このあたりに都の出先機關の國府が置かれてゐたさうです。

名に負ふ春日山城は、春日神社の嶮しい石段からはじまりました。健脚ぞろひにとつてなんのことはない石段でしたが、初つぱなからです。それも、今回の旅のこれが最大の難所かも知れませんよなんていふ解説付き、みなさん、數へながら上つて行きました。ぼくは殿を、疲れを見せないやうにゆつくりと上りました。一三六段ありました。

春日山城は、長祿年間(一四五七~一四六〇年)に築城され、慶長十二年(一六〇七年)には廃城となつた城ですが、なんと言つても上杉謙信の名とともに有名なお城でもあります。典型的な山城であるさうです。その城跡は上杉謙信の像がある駐車場から眺めただけでしたが、とてもよい勉強になりました。

つづいて、バスで名立といふところまで行き、直江津から糸魚川まで整備された、舊北陸本線の廢線跡を歩きました。看板には、「久比岐自転車歩行者道」とありました。左手は高い崖でしたが、右手は一面の靑海原の海岸沿ひです。中仙道では海を見ることはありませんでしたから、格別の思ひで、海の美しさを滿喫しつつ歩きました。すばらしい展望です。ただ、先生がおつしやるには、このあたりから佐渡島が見えるはづなのださうです。比べやうがないぼくたちは、さうですかと答へつつも心はうきうきでしたね。

さらにバスに乘つては下り、筒石の漁村集落と舟屋を歩きながら見學し、道の驛マリンドーム能生で晝食をいただきました。もちろん、カニ汁がたんとでましたよ。

 

晝食をはさんで午後も精力的といふか、きめ細かにといふか、バスに乘つては下りして、名所を訪ねました。ぼくはこのとき、あれまあ、芭蕉の 『奥の細道』 を持つてくるのを忘れたことに氣がつきました。迂闊でした。

早川といふ川を渡つてゐた時のこと、先生が、この川は芭蕉が衣を濡らしてしまつたので干したその川ですよと敎へてくれたのです(補足・・「十二日 天氣快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。」と『曾良随行日記』にあります。さすが、恥ずかしかつたのでせう、芭蕉さんは記してはゐません。)。

ぼくは、芭蕉のことを失念してゐました。まだ、中仙道の旅を引きずつてゐたんでせうね。義仲寺の芭蕉のお墓を見てしまつたので、ぼくの頭から芭蕉はすでに葬りさられてゐたんです。愕然といたしました。まあ、そんなに深刻なことではないんですが、迂闊は迂闊、あとでしつかりと復習しようと心に誓つて先生のお話に耳を傾けました。

 

糸魚川に着きました。奴奈川姫像の説明を受け、道路沿ひの岩石標本をたどり、最初の道を左折すると、そこに相馬御風さんの舊宅が記念館として殘されてありました。御風さんといへば、『大愚良寬』や『一茶と良寬と芭蕉』を讀んだことを思ひ出さないわけにはいきませんね。この際ですから、再讀しなければなりませんです。

いやはや、岩石標本の先には、町角の廣場に「ヒスイ原石」が展示されてゐました。脇には糸魚川小滝産と書かれていましたから、この附近ですね。俄然膽石、でない探石意欲がむくむくとわき上がつてきました。

つづいて、「雁木通り商店街」を歩いて、糸魚川宿本陣を訪ねました。跡としなかつたのは、現在も「加賀の井」といふ銘酒の酒屋さんとして現存してゐるご立派な建物だからでした。さう、この前の通りが加賀街道であることも知りました。

 

さらに旅はつづきます。日本海に注ぐいくつもの河川をわたり、こんどは親不知にやつてきました。靑海町の「日本の道百選」にも選ばれてゐるところです。ここは白馬岳に登る登山道の入口でもあるのでせう、そこから今下りてきたばかりだといふカップルにお會ひしました。およそ三千メートルの高さから、一氣に海まで下りてきたんですね。みなさん聲こそあげませんでしたが、讃嘆の思ひで見つめてゐました。ぼくも見つめました。その女性がか弱そうなうへにすてきな感じだつたからでもあります。二人きりで何日も山の中を歩いたなんて、羨ましかつたですね!

さういへば、展望臺のところに、ウォルター・ウエストンの銅像があり、そこに、「明治二十七年に親不知を訪れ、著書『日本アルプスの登山と探検』で、ここが日本アルプスの起点であると紹介しています。」と書かれてゐました。この起點から、多くの方が遙か三千メートルの高みをめざしたんですね。山には疎いぼくでも、憧れてしまひます。

ところで、この展望臺からの眺めは最高。ちよいと言葉が浮かびません。

 

芭蕉さんの『奥の細道』は、「北國一の難所」である親不知を越えて、市振にやつてまゐります。ぼくたち一行も到着しました。すると、岸本先生、宗匠頭巾に羽織を着込んでご登場です。「海道の松」、「弘法の井戸」、長圓寺の芭蕉句碑「一つ家に遊女も寢たり萩と月」をそれぞれ解説くださり、街道にもどつて、「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」にやつてきました。長圓寺の句碑の「名句」を詠んだとされる桔梗屋の跡といふのですが、説明板には、「史跡 伝芭蕉の宿桔梗屋跡」とあります。さう言ひ傳へられてきたんですね。

その先には、「市振関所趾」が現れました。江戸時代の重要な關所の一つだつたやうです。廣場に一本だけ立つ榎の巨木が非常に印象的でした。推定樹齢二五〇年ださうです。

もうラストスパートに入つてゐるんでせうか日もだいぶ傾いてきました。でも、肝心のひすい海岸はこれからです。はやるこころをひそめて、バスを降り立ちました。規制はなく、自由に採取できるのださうです。限られたじかんでしたが、ぼくは、欲が出て、くつと足とを波にに洗はれながらいくつか手にしました。嬉しかつたですけれど、どうみても翡翠ではないやうです。でも記念ですからね、みなさんと海を背景に記念寫眞を撮りました。

最後に降り立つたのは、黒部川の刎掛橋跡でした。黒部川が谿谷から平地に出ようとするその出口に架けられた橋の跡です。寛永三年(一六二六年)に最初に架けられました。木製ですから、明治までに八回の架けかへが行はれたやうです。

下流になれば幾つにも別れた多くの川を渡らなければなりませんが、この橋一つを渡れば對岸に至れるといふ、とても貴重な橋でしたけれど、現在はその下流に近代的な橋ができてゐます。橋跡を覗いてみましたけれど、ぞくぞくするほどの高さと、急流です。よくぞ架けたなと思ひました。加賀藩主前田綱紀が命じて作らせたものなんですね。

ぼくたちは、その近代的な愛本橋を渡り、史跡粕塚を訪ねました。その謂はれが面白いと思ひましたが、もう疲れてきました。にもかかはらず、先生の言ふがままに塚、といふよりは岩の山を登る方がをられて、ぼくは開いた口がふさがりませんでした。

宿泊は、宇奈月温泉の宇奈月グランドホテルでした。温泉に入り、夕食も豪華でした。部屋は四人部屋、川野さんと楓さんと疋田さんとぼく。みな、中仙道の仲間たちです。

さうです、バスの旅とはいへ、今日一日で、一五〇〇〇歩歩きました。

 

今日の寫眞・・「ひすい原石」前にて、白馬から下山したてのお二人、親不知海岸に下りた樣子、そして、岩山を登るあきれた人々!

 



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