十月廿二日(木)辛未(舊九月十日 晴

 

快適な朝を迎へました。昨年八月二十二日、「中仙道を歩く(十八)」で和田峠を越えた翌朝、甲斐さん川野さんとともにいただいた思ひ出深い朝食會場で、今朝は森さんと向かひ會つていただきました。ぼくは體調にあはせ、輕くオートミールと果物とコーヒーにしました。

さて、バスで、昨日小野驛からやつてきた道をもどりました。日暮れで見えずらかつた諏訪湖の南岸を走り、天龍川への出口の釜口水門を過ぎ、一路辰野まで天龍川に沿つて伊那街道を南下しました。天龍川はこのまま二三一キロ先に待ちかまへる太平洋まで流れ下つて行くのです。ぼくたちは、しかし中央本線にそつて、辰野からこんどは三州街道を北上、小野驛へとやつてきました。

(註・・伊那街道は、岡谷または鹽尻から辰野を經て、伊那、飯田、足助を通つて岡崎に至る街道です。三河方面からは伊那街道と呼びますが、信濃では三州街道と呼んでゐました。ここでは、便宜的に、岡谷からを伊那街道、鹽尻からを三州街道と呼んでおきます。)

 

小野驛前でストレッチ、九時ちやうどに歩きはじめました。國道153號線を南に向かひ、昨日小野峠を下つてきた初期中仙道に合流して、鴛鴦(おしどり)橋を渡り、さらに進みました。このあたりがかつての小野宿の中心で、期待してゐた歴史的家屋がいきなり現れました。

小野宿は、鹽尻宿から伊那方面をつなぐ三州街道最初の宿場であり、且つ初期中仙道とが交はる宿場で、たいへん賑はいました。その痕跡が、殘された民家といふか、記念物級の問屋などの家屋に色濃く見られるやうなのであります。ただ、元録元年(一六八八年)と安政六年(一八五九年)に大火にあひ、現在残されてゐる町竝みはそれ以後再建されたものださうです。

 

銘酒「夜明け前」を製造販賣してゐる小野酒造店、横濱で商業學校を創設、貿易商としても成功して郷里小野に貢獻した小野光賢・光景記念館、小野宿問屋をつとめた舊小野家住宅、この建物は縣寶とされてゐます。ちなみに、小野宿には本陣や脇本陣はなくて、必要なときにはすべて問屋がまかなつてゐたやうです。たしかに、希に見る豪勢な造りです。雀踊りも踊つてゐます。

以下、參考に引用しておきます。「旧小野家住宅は間口10間半、奥行き8間半という大規模な本棟造りの建物。切り妻造り、妻入りの民家で正面に胴差と妻梁という二段の太い横架材を見せている重厚な建造物である。棟の上には〈すずめおどり〉とその下には立派な縣魚も付けられていた。

幕末における町家、特に宿問屋としての姿を今日に伝え、小野宿町並みの中心部の景観を形成する重要な建物のひとつである。」

その他にも、本棟造りの民家が、無造作にと思へるくらゐに建ち竝び、その中でも、「武家屋敷 倉澤家」と表札のある屋敷の前には「御高札場」跡も見られました。

 

さう、見落とすところでしたが、左手駐車場の奥に、「南塩終点の地」碑が建つてゐました。「南塩」とは、太平洋沿岸(三河湾沿岸)で取れる塩のことでしたね。それが舟や馬や人手を經て運ばれてきた、その終點地がこの小野宿であつたといふことです。といふことは、越後の塩も、せいぜいこのあたり止まりだつたといふことでせう。南北兩塩の終點地であつたのですね。

 

それにしても騒々しいといふか危險な宿場町です。國道を行き交ふ自動車の量が半端ではないのです。これだけが殘念で仕方ありません。みなさんに遲れまいとして急ぎつつも、ぼくも最大限に氣をつけました。

が、それも小野下町交差點まででした。その角にある明治三十六年建造の舊小野村役場で、現在も地域活動に利用されてゐるといふ明倫館の建物を右に折れたとたんに静寂が襲つてきました。これをなんと表現したらいいのでせう。耳の奥の氣壓がぬけたみたいとでもいひませうか、兎に角、靜かで明るく、廣々と、遙かに晴れわたつた空の下を歩く喜びをかみしめながら、もう行進ではなく、散歩、散策のやうな氣分で田畑を貫く道を歩みはじめました。

 

この田舎道は、しかし歴(れつき)とした縣道254號線、別名「縣道楢川岡谷線」なんです。それにしても、うそのやうな静けさ、自動車の通行がまつたくありません。左右に廣がる刈り入れの濟んだ田圃のへりにそそり立つ低い山には、赤松や落葉松に交じつて赤く黄色く色づいた木々も見られ、思はずカメラを向けるのはぼくだけではありません。實にいい季節にやつてきたものです。

何しろ初期中仙道ですからね。歴史的遺跡や遺物もさうめつたにはあるものではありません。せいぜい一里塚跡ですかね。それがまた道端にこれ見よがしに建つてゐるんですから、見逃すわけがありません。「蟻の甘きにつくが如く」、みなさん群がつての見學でありました。

さう、これは、飯沼塚原の一里塚といつて、江戸日本橋から五十九番目の一里塚でした。

つづいて、飯沼川、といつても小川のやうな可愛い川を渡り、下村集落に入つてきました。すると、街道沿ひに家がへばりつくやうに建ちはじめました。それも土藏付きです。ふ~む、ご立派なものです。

外観は、漆喰総塗籠(しつくいそうぬりごめ)なんでせうね、下部を板張りとしたものもありましたが、中にはなまこ壁のものも見られます。

また、土藏の妻側には、家紋なのか屋號なのか、はたまた縁起擔ぎの文字なんでせうか、多種多彩のあまり、目に付いた土藏はすべてカメラに収めていきました。例へば、「壽」、「龍」、「菊」など。はたまた、圖形まがひの記號のやうなもの。淺學のぼくには分からないものも多くありました。

それが、所々にではなく、ひっきりなしに現れるのですから、たいしたものです。いや、この村の底力、その豐かさがです。

 

途中、飯沼コミュニティセンターでトイレ休憩でした。休みがてら、道祖神や「飯沼のネズミサシ」といふ樹木、さては、「木曾義仲、お手植えのトチ」なんていふのが、川向かふの神社に見えました。五本あるさうです。

ここは、すでに中村集落で、土藏を伴つた家々とともに、甲子塔や庚申塔、馬頭觀世音や地藏尊などが見られました。珍しく、久しぶりにアッベク道祖神にもお會ひしました。

 

東西に延びる谷間の北側斜面に建つ家々ですから、日當たりはいいですね。街道も日を燦々とうけて、汗ばむを通り越して暑くなつてきました。

 

「山口口」なるバス停を過ぎると、右側からせまつてきた山に沿ふやうにして街道が曲がりくねり、視界が狹まると同時に、遙か遠くの高臺に火の見櫓が目に入つてきました。うまい場所に建てたものです。山口集落に到着しました。ここにはまた多くの土藏が犇めき、もう幾つ見つけたか分からなくなつてしまひました。

集落の家竝が盡きたそこに、またすてきな道祖神が庚申塔などとともに建つてゐました。集落の出入り口を守る神々なんでせうね。

そこからはさらに道が曲がりくねり、そして急勾配になつてきました。それにつれて、振り返ると、今まで歩いてきた道が遙か彼方に見えてきました。それも、時々すすきの穗の群生によつて遮られましたが、高度を上げるにしたがつて、ますます視界が廣がつていきます。

地圖によると、展望臺をかねたあづまやがあるといふのですが、もうそろそろかな、と思ふやいなや、迷彩服を着て、四、五十キロもあらうかといふ荷物を擔いだ自衛隊員がそろり、ぞろりと上のはうから何人も下りてきたのであります。

こちらも驚きましたが、兵隊さんたちもびつくりしたでせう。このぢいさんばあさん、何してるのかと思はれたに違ひありません。それも、ここで計畫を展開するべく隊形を立て直し、ぼくたちが存在しないかのやうな振る舞ひにはいささか考へさせられました。

ぼくは、ちやうど記念の寫眞を撮るつもりでしたから、隊員が展開するなか、ピースサインを掲げた姿を撮つていただきました。いへ、ぼくは、兵隊さんに偏見を持つてはゐないつもりです。たしかに、自國防衛のため、災害復舊のためには缺くことの出來ない存在です。どうか、他國で戰ふことがないやうに、自國防衛に徹することが出來るやうにと祈るやうな氣持ちで、無表情な若者達を見つづけました。

 

なんだか氣が抜けた感じになつてしまひましたが、氣持ちをひきしめ、峠までの最後の難關に取りかかりました。ところが、この段になつて、史跡が二つ。江戸より六十番目の前山の一里塚と牛首峠の名の由來となつた、「牛首塚」に出會ひました。

それで、牛首峠に到達しましたが、そこは自動車道路の切通しであり、情緒も感慨も湧いてきません。そばには、先ほどの自衛隊員を乘せてきたとおぼしき大型のジープまでも停まつてゐます。

一息ついたところで、紅葉眞つ盛りの森の中を下つて行きました。峠からこちらはまつたくの森の中の谷間の道で、ふもとまで家一軒も見られませんでした。黙々と、約一時間で、中仙道は櫻澤のパーキングに到着。殘念でしたが、「是より南木曾路」碑までは訪ねることなく、バスに乘り込みました。

一二時四〇分ゴール、一七六五〇歩でした。幸ひなことに、體調を崩すことなく歸路につくことができました。

 

さて、結論ですが、今回の旅は、初期中仙道を歩くなんていふ目的を忘れてしまふくらゐ、素晴らしく美しい日本を堪能できました。小野宿から牛首峠までの下村・中村・山口。また來てみたいですね。さうだ、今度は、今回參加できなかつた川野さんを案内して、碓氷峠の恩返しをしよう!

まあ、たしかに、二つの峠を越すのは辛いものがありました。とくに、小野峠のはうがきつかつたですね。比べてみますと、鹽尻峠一つを超えればよくなつた新しい中仙道のはうがとても樂ですし、松本方面へも直行できますから、大久保長安といふ重しが除かれることによつて、直ちに新街道に付け替へられたのでせう。それでも今だに廢道とならずに通れるといふのはとても貴重で、いい體驗をさせていただきました。

 

今日の寫眞・・朝の諏訪湖、天龍川への出口の釜口水門。以下、美しい景色をご堪能ください。

 




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