二〇一五年十一月十一日(水)辛卯(舊九月卅日 雨後晴たり曇つたり

 

今日は、「北國街道(三)」(善光寺宿~出雲崎宿)のバスの旅、その二日目です。

直江津で迎へた朝、ホテルの窓のカーテンを開けると、目の前に關川にかかる關川大橋が見えました。よく見ると小雨が降つてゐました。今日は雨が上がると聞いてゐたので、ちよいと殘念でしたが、三年にわたるツアー旅の最後の日です。氣持ちだけはのびらかに歴史探訪のバスツアーに臨みたいと思ひました。

 

朝食後、八時半にホテルを出發。バスは、下流では荒川と呼ぶ關川に沿つて下り、最も河口に近い荒川橋たもとの町の中にやつてきました。目の前にお寺がそびえてゐます。それが土藏造りといふのでせう、どつしりとそびえてゐるとしか言へないやうな頑丈な作りをしてゐます。雪や火災からも守るための構造といふことです。

それで、表札を見ると、お寺は「聽信寺」でした。芭蕉が『奥の細道』の旅で、立ち寄つたけれども歓迎されなかつたお寺ですね。つづいて、芭蕉が七月六日に宿泊した古川市左衞門方で行はれた句會で詠んだとされる、「文月や六日も常の夜には似ず」といふ句碑が建つ、琴平神社に行き、さらに同じ敷地なんでせうか、荒川に面した側に、「安壽と厨子王供養塔」といふのがありました。これにはいささか驚きました。安壽と厨子王母子が人買ひにさらわれたのが、この直江津だつたらしいのです。そこまでは知りませんでしたので、歸宅したらさつそく調べてみようと思ひながら、そばで待つバスに乘り込みました。

バスは、上越ICから北陸自動車道にのりました。左手には日本海が見え隠れし、右手にはいくつもの池が見えました。先生はこれらが新潟の名前のもとになつた「潟」であるとおつしやつてをられましたが、海からの砂で丘となつた海岸線に堰きとめられた水溜まりのやうです。

 

つづいてバスを降りたのは、鉢崎宿でした。信越本線でいへば米山驛の近くで、入口に米山海水浴場と書かれた看板がたつ、宿場の面影が色濃く殘る町竝を歩きました。最初に現れたのは、芭蕉が泊まつた「たわらや」跡でした。豫定としてゐた柏崎宿で不快なことがあつたので、たわらやまでの十二里の距離を歩き通してしまつたといふ、曰くつきの宿でした。

さらに、間宮林藏に先だつて樺太が島であることを確認した(と同時に間宮海峽の存在をも確認した)松田傳十郎の生家を訪ねました。その先には、こんどは、伊能忠敬一行が、その持ち物の見慣れない測量器具のゆえに不信がられ、咎められたといふ鉢崎關所跡。そして、眺めのよい景色を堪能しながらたどり着いたのが、カラフトの碑が建つ聖ケ鼻でした。

上つて來た方を振り返れば、いつの間にか天氣がよくなつてゐて、鉢崎宿の全貌と信越本線と靑い日本海が眺められ、そこを峠とすれば、反対側の遙かかなたの海岸線には柏崎刈羽原子力發電所が見渡せました。そして、先生に指摘されなければ氣がつかなかつた、新潟中越沖地震二〇〇七年七月十六日に發生)で崩れた崖も見ることもできました。地震跡と原發が竝んで見えるなんて、ブラックユーモアでもあるまいし、ゾクゾクッときましたよ。

 

三度目にバスを降りたのは、靑海川でした。このあたりは、「米山三里」と呼ばれる難所だつたやうで、山が海岸にせり出してゐるやうなところです。その縁(へり)を、現在は、信越本線と國道と北陸自動車道の三路線が絡み合つてゐるやうに走つてゐます。

國道8號線は河岸段丘の上を走つてゐて、北國街道・奥州道を辿るには、海岸に向かつて急な崖道を下らなければなりませんでした。途中に、「米山三里」といふ標柱が立つてゐました。街道といふより山道ですね。草刈りにでも行くやうな氣分です。下るに從つて景色がよくなり、海岸に最も近いところにある驛として有名な靑海川驛が現れ、なんと列車がじきにやつて來るやうなんです。みなさんはぐんぐん下つて見えなくなつてしまひましたが、ここは辛抱。待つてゐると、遠くのトンネルの中から明りが見えたかと思ふ間もなく、黄緑色の帶を車體に卷いた電車がやつてきました。いい具會ひに寫眞が撮れました。

さて、みなさんを追ひかけて、さらに下ると、谷根川(たんねかわ)にかかる橋の上で何かを見てゐるやうです。頭上には國道の赤く大きな橋がかかつてゐます。聞いてみると、鮭の遡上だといふのです。が、よく見えません。でも、その先には、《柏崎さけのふるさと公園》の展示館があつて、中で鮭の生態やらが展示されてゐました。それによると、この谷根川は、有名な村上市の三面川につづいて多くの遡上が見られる川だといふことです。

展示館を出て、河口に向かひました。線路の下を流れ下つた川が日本海に注ぐところに、まあ、人だつたら一足で上がれるわづかの堰といふか段ですね、そのそばに行くと、確かに見えました。鮭の遡上です。いやあ、はじめて目の當たりにしましたが、感動的ですね。何度も何度も挑戰しては堰を越えていくのです。運良くその遡上の瞬間をカメラに収めることができました。

再びどんよりと曇り、時々小雨が降りかけてはやんだりの、ちよいと鬱陶しい氣もしましたけれど、鮭の健氣な姿にはなにか大切なことを敎へられたやうな、充實した氣持ちになりました。誰のためでもない、ただ子孫のために、子どもを産むためだけに全力を用ゐて、生命を使ひ果たすその姿こそ、大自然のいとなみなんでせうね。いやあ、涙がにじんできてしまひさうです。近頃にはない感動を味はひました。

あッ、さう、岸本先生が、北國街道を往く順番を變へてでも、この時期を選んでここに來たのかが分かりました。鮭の遡上の時期に合はせてくれたんですね。藝が細かいといつたら失禮かも知れませんが、御開帳に合はせた善光寺參りと言ひ、鮭の遡上と言ひ、まことに感謝としか言ひやうがありません。めつたに見られない光景でした。

 

さて、遡上見學のあとは、北國街道・奥州道がこの道なのか、細くくねつた崖の道を上りました。再び國道に出ると、そこに「出羽三山碑」が建ち、ここが間違ひなく北國街道・奥州道であることを語つてをりました。さらにその先でバスが待ち、そのまま岬の先端まで乘せてくれました。わづかな距離でしたけれど助かりました。そこは戀人岬と言ひ、伊豆とグアムと姉妹提携してゐるところらしいです。まあ、それはどうでもいいんですが、目の前には佐渡島も見え、先ほどまでゐた靑海川驛と谷根川の全體像も目の當たりです。たしかに靑海川驛のホームの下は、浪が押し寄せる濱で、海水浴場にされてもゐるやうです。

戀人岬の展望臺では、みなさんと記念寫眞を撮りました。そして國道までもどつてそこのレストラン、日本海フィッシャーマンズケープで晝食をいただきました。お刺身料理でした。

 

さて、以下、訪れたところをかいつまんで記すことにします。

晝食後最初に向かつたのは、戊辰戰爭で唯一東軍が勝利した鯨波戰爭跡を素通りし、柏崎の海濱公園でした。そこでは、まづ先生から、この近くで蓮池薫さんらが北朝鮮によつて拉致されたといふお話を聞きました。また、そこに建つ濱千鳥の歌碑の前で、みなさんと「濱千鳥」を歌ひました。

そこから町に入り、根埋(ねまり)地藏とか、立地藏とか、芭蕉舊跡天屋跡を見學しました。天屋跡は一枚の標柱があるだけで、ここには子孫の方もをられないといふことなので、岸本先生は、ことさら丁寧に芭蕉の旅の樣子をお話くださいました。天やは、芭蕉が宿泊を願つたのに不快なめにあはされて泊まらずに去つた家です。朝、出雲崎宿を發ち、疲れてゐたにもかかはらずに、さらに鉢崎宿まで歩かせてしまつたほどの「不快」とはなんだつたのでせうかね。

さらにバスは、原發の施設ができたために通れなくなつた街道を迂回し、宮川宿を通り越し、國道352號線を椎谷宿に向かひました。

椎谷宿はいかにも濱邊に近い潮風かをる宿場跡でした。馬喰宿、椎谷藩陣屋跡、椎谷觀音仁王門と頓入の石段。そして素晴らしいながめの夕日が丘公園で、晴れてきた靑空と靑い海と向かひの佐渡島の景色を堪能いたしました。遠くには海に浮かぶやうに弥彦山も見えてきました。

けれど、堪能ばかりしてはゐられませんで、また中越沖地震で崩れて通行止めになつたままの道路にも立ちました。原發は當時すでに完成してゐて、地震では火災が發生したといふことです。それだけで濟んで、といふのは、發表を眞に受ければといふことですが、まあよかつたとしかいへません。

 

こんどは、海岸線に沿つた道路際で降り、勝見鉱泉と天然ガス噴出地を見學。そばの稻荷堂で、北前船水盤といふ珍しい石造りの貯水槽を見ることができました。

さあ、出雲崎宿です。湊にある夕凪の橋の先端に立ち、天領の里と石油記念公園を通つて、出雲崎宿の宿場に入りました。以前に來た思ひ出がところどころで浮かびます。

なにしろ人がをりません。ぼくたち一行が貸し切つたやうな氣分で見て歩くことができました。良寬が剃髪した光照寺、佐渡から運ばれた金銀が車馬に積み替へられた御用小路、塀や壁に貼られたいくつもの「出雲崎よもやま話」を見ながら、妻入りの街竝みを歩き、途中にあつた、「北國街道 妻入り会館」で休憩と見學をいたしました。土間の壁に飾られた、「東京芸術大学生街並スケッチ」のすばらしさには、目を見張りましたね。これは必見です。

つづいて、芭蕉が宿泊したといふ宿の向かひにある芭蕉園と、良寬誕生橘屋跡に建つ良寬堂を訪ねました。ふと懐かしさが込み上げてきました。けれども感慨にひたつてゐる間はなく、海岸沿ひで待つバスで良寬記念館に參りました。が、すでに閉館時間が過ぎてをり、そこから石段を上つて夕日の丘公園にやつてきました。ここが最後の探訪地です。目の前には佐渡島。右手には弥彦山。深呼吸をしながら、遙か彼方までつづく景色に身をさらしました。

最後に、奧樣の伴奏で「砂山」を歌ひました。ふと見上げると、雁が群れをなして北の空へと飛んでいきました。

長岡驛一八時〇一分發東京行き《MAXとき340號》で歸路につきました。

 


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