十一月廿二日(日)壬寅(舊十月十一日 曇天、雨、風

 

昨夜は、十一月十一日の日記のつづきを書いてゐたら、午前様樣になつてしまひました。それでも書き上がりませんでしたが、これが書き終はらないと、『北國街道(三)』も書けないので、ちよいとあせつてしまひます。十二月一日には、史策會の親鸞聖人紀行が豫定されてゐるので、それまでには終はらせたいと思ひます。

それで、今日も引きつづき、どうにか十一月十一日の日記を仕上げました。どうしても簡略にはいかず、そのまま紀行ができてしまふ程度のものになつてしまひました。一氣にしあげられたらいいんですが、問題は寫眞ですね。これがけつこう手間がかかるんです。

 

今日の讀書・・森鴎外著『山椒太夫』(岩波文庫)を讀みました。まあ、なんといふか、前に岩崎武夫さんの本を讀んでゐたからかも知れませんが、メリハリのない物語であると感じました。原文の、讀む者を驅り立てるといふか、掻き立てるものが感じられないんですね。それこそ別世界の話を取り上げてゐるだけで、原文の持つ切實さといふか、同じ土俵、同じ地續きの話であるといふリアリティーがない。これですね。

例へば、原文では、語りかけてくるものが感じられるのです。「あらいたはしや御台所は、」、「あらいたはしやな、四人(よつたり)の人々は、」、「あらいたはしやきやうだいは、」、「あらいたはしやつし王殿は、」、「あらいたはしやな姉御様。」といつた繰り替へしが、身に迫つてくるんです。それは聞く者の悲慘な現實を呼び覺まし、あたかも自分もつし王(厨子王)、安壽になつたかのやうに悲劇を追體驗し、そして同時に救はれていく、このやうな語りの説經がどれだけの人々を慰めたか、そして地藏佛への歸依を促したことか、今日だつて決して違つた世界とは思へないとぼくは思ふのであります。

 

今日の寫眞・・朝刊切り抜き。

 

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