二〇一五年十二月(師走)一日(火)辛亥(舊十月廿日 晴

 

今日は我が《史策會》の定例〈史的散策ハイキング〉に行つてまゐりました。四月に行つた「流山散策紀行」以來ですからみなさんお久しぶりでしたけれど、獨りも缺けることなく全七名の參加で樂しく歩き回りました。

今回は川野さんの企畫とリーダーで、參加者ひとり一人の交通といふか、最寄りの驛からの乘車時間やら、乗り換へ驛とその時間など、まことにきめ細かいご配慮のもと、JR水戸線の稻田驛にみな無事に集合することができました。なにせ、參加者は、ぼくの綾瀨をはじめとして、築地、(横浜市)藤が丘、八王子、大宮、久喜、そして我孫子、いや、住まひは茨城縣利根町ですから、成田線の木下(きおろし)といふ廣範圍に住まはれる方々です。東京で會ふにはよいにしても、ちよいと外れますと、かうも不便になります。そのところをよく配慮なされて、ご苦勞さまでした。

ところで、遠いところなのでびつくりしました。綾瀨驛から松戸驛乘り換へでまるまる二時間かかるのです。また、それだけ遙かなる遠い世界へやつてきた感じがいたしました。探訪した順番に記していきます。

まづ、野の道をたどり、稻田神社を訪ねました。平安時代に編纂された『延喜式』にも記されてゐると言ふ由緒ある神社のやうであります。祭神がクシナダヒメノミコトで、その夫となつたスサノオノミコトを祀る八雲神社も境内にありました。また、ひときは太くて高い椎の木が聳えてゐました。が、その根元に、脚摩乳神社があり、片方には手摩乳神社が拜殿前の參道を挾んで向かひ會つてをりまして、みなさんと、これはどのやうに讀むべきなのか、さんざん考へたあげく、「手で乳をさする神社」と、「脚で乳をさする神社」であらうと結論いたしました。ぼくは手のはうに軍配をあげましたです。はい。

つづいて、今日の第一の見學場所、稻田禪房西念寺(稻田御坊)にやつてきました。山門までの參道の竝木が實に美しく、さらにその山門の風格ある姿には歴史的世界に入る者を嚴しく問はづにはおかないバリアといふか、オーラのやうなものを感じましたね。

ここは、親鸞が二十年過ごし、關東布教活動の據點ともいふべきところだといふことを、改めて知らされました。ここで親鸞は、『教行信証』を執筆してゐるんですよね。お掃除の方が、もう少し早く來られたらきれいでしたよ、と言はれたので、見上げると素晴らしい枝を張つたイチョウの木がそびえてゐました。すでに葉は落ち盡くしてゐましたけれど、それはたしかに黄金色に輝いて、さぞ見ものでしたでせう。

横の黑門を出ると一面の田畑です。親鸞もこの景色を見たのかと思ふと、八〇〇年といふ時の隔たりが一變に縮まつてしまふやうでした。田圃の中を貫く道を行くと、そこに「見返り橋」といふ、石橋の跡がありました。親鸞が稻田を後にして京に戻るときに振り向いた橋だといふのです。さうですね。振り返りたくもなる美しい景色でした。回りは里山といふのでせうか、まだ紅葉が見られて郷愁を誘はれました。

さらに、親鸞の妻の玉日姫を祀る「玉日廟」を訪ねました。さうです、玉日姫はあの『玉葉』の九條兼實の娘ですが、親鸞は兼實の弟、『愚管抄』の著者慈圓のもとで出家したのですから、この結びつきは決して不思議ではありませんね。ここもまた參道の植木がよく手入れされ、特にイヌツゲのみごとさには驚嘆してしまひましたよ! これは必見です。

おまけに、近くにあつた磯藏酒造さんで試飲をさせていただきました。これは、前もつて問ひ合はせてくださつた川野リーダーのご努力で實現したのでした。さう、稻田姫の願ひを受け繼ぐ酒造りとありましたけれど、どんな願ひだつたのでせうか?

さあ、再び稻田驛に戻つてまゐりました。第一部終了といつたところでしたが、もう一つ、電車到着までの間、驛に併設した「石の百年館」といふ稻田石(花崗岩)の展示館を見學しました。それによると、東京國立博物館の表慶館や最高裁判所などはこの石材を用ゐてゐるんださうです。ぼくは、小さなサイコロのやうな正方形の石を求めました。二〇〇圓也。

 

第二部は「白廩居(はくりんきよ)」、我が國初めてのイコン畫家山下りんの資料収蔵館訪問です。稻田驛から笠間驛までは一驛。でも驛前の道ははるばるとつづいてゐます。どのくらゐあるんでせうか。といふのは、人影はもちろん、自動車も多くは見られず、まつすぐの道が見霽かすことができたからです。時間に余裕があると言ふリーダーのお言葉により、では笠間稲荷神社にでも行きませうといふことになりました。なにしろ、このメンバー、名所舊跡には關心がなく、めざす探訪先最優先ですからね、今回はおまけでお稻荷さんを訪ねました。

あれ、意外にこじんまりしてゐます。伏見と豊橋と竝ぶ三大稻荷の一つと聞いてゐましたが、ちよいと期待はづれでした。でも記念寫眞は撮りました。

さあ、白廩居です。靜かな住宅地に、他の建物と違和感なく清楚に建つてゐました。ちやうど植木屋さんが入つてゐたのですが、それで、植木に目が向かひ、庭の紅葉には目を見張つてしまひました。それで、みなさんに遲れて入つたのですが、まづ、個人の資料館にふさはしい質素な感じが印象的でした。りんさんの経歴や作品とともに、關連本も置かれていて、その中に司馬遼太郎の『街道をゆく(33)─奥州白河・会津のみち』(朝日文芸文庫)があつたのには違和感を覺えました。が、讀まないわけにはいきさうにはありませんです。

案内をしてくださつた方が、『山下りん―信仰と聖像画に捧げた生涯』(ふるさと文庫)を書かれた小田秀夫の娘さんであつたのには驚きました。とても感じのよい方で、また來てみたいと思はせられました。

それで、歸りぎはに、リーダーがりんさんのお墓を尋ねたのです。地圖を見ながら丁寧に敎へてくださつたので、早速向かひました。すでに太陽は傾いて山に没しさうです。ぼくが好きなのは、みなさん、リーダーがお墓に行きますといふと、待つてましたとばかりに從つたことですね。さつきの稻田御坊では、親鸞の「御頂骨堂」に登ることには見向きもしなかつたのは、ちよいと押しが足りなかつたからでせうか、こんどは實にすなほでした。

たどり着いたのは、山裾の光照寺といふお寺でした。良寬さんが出家剃髪したお寺と同名です。こちらは、本堂前の石碑に彫られてゐるやうに、親鸞さんの「かさま草庵」の跡といふことです。その裏手に墓地がありまして、墓地といつても小山のやうなところで、上りに上つた頂上付近に、「山下家之墓」があり、その一角に、「山下りん之墓」と、裏面に略歴が彫られた「秋尾園 いりな山下の碑」の二基が建つてゐました。眺めのよい墓地でした。

その歸路、道筋にある洋食屋SUNといふお店で會食でした。洋食と思つたところ、注文してあつたのは日本風で、鍋物とエビやかきのフライ等、ビールで乾杯するにはもつてこいでしたね。川野さん、ご苦勞樣でした。

笠間驛で、小山經由東北線と友部經由常磐線とに別れました。時々咳が出て苦しかつたですけれど、それ以上に樂しかつたです。歸宅したら、二〇一〇〇歩でした。

今日の寫眞・・第一部のみ。稻田石の鳥居。脚摩乳神社を前に考へてゐるみなさん。稻田御坊への竝木道。境内の大イチョウ。見返り橋。玉日廟。

 




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