十二月廿二日(火)壬申(舊十一月十二日・冬至 晴

 

今朝は月例の齒の掃除日。ついでに、ちよつとしたところの穴を修繕していただき、さつぱりしたあとで出かけました。 

行き先は、江東區東砂の舊葛西橋にあるナカヤさんでした。幼なじみ、といつたら正確ではではないかも知れませんが、子どもの頃よく訪ねては一緒にパンをこねていたづらしたり、養殖した海苔を天日干しした荒川の土手を飛び回り、裏の工場跡地のやうな廣つぱで遊んだりした、現在のご主人の弟のヒロシさんが先日亡くなられたとの知らせを耳にしたので、それでお訪ねしたのでした。六十八歳だつたと言ひますから、まつたくぼくと同じ年齢なのです。 

ナカヤさんは、叔母と父の葬儀の時など、時々わが家にも訪ねてくれましたが、ヒロシさんとはそれ以來つき合ふこともなく、それこそ音信不通といつた状態だつたのです。けれども、亡くなられたといふ知らせを受けたので、まづはお訪ねしたのでした。 

ところで、このナカヤさんとぼくとの關係は、實に遠い親戚なのです。ふつうだつたらもう交際もしないくらゐの遠い仲なんです。だつて、ナカヤさんのお父さんとぼくの父が從兄弟同士といふ關係なのです。ぼくの祖母が、ナカヤさんのお父さんである、いはば甥ですよね。その甥がパン屋を開業するにあたつてだいぶ協力援助したさうなのであります。それは、戰前のことですが、その恩を忘れずに、父親が亡くなつても今だに聲をかけてくれたり、できたあんパンをくださるのであります。ぼくはただ聞いたことがあるだけですよ。それでも、「情けは人のためならず」ではありませんが、ひとによくしておくことは、結局お互ひのためになるんだなあと思つてゐる次第なのであります。 

さて、でも、そのナカヤさんにどのやうにして行つたらよいか、惱みました。昔、都電が走つてゐたときには、神田須田町から砂町行きに乘れば、お店の前が終點でしたから、小學低學年のぼくでも一人で行くことができたのでした。そのことは、『歴史紀行十 中仙道を歩く(一)』の中でちよいと觸れました。須田町は都電のターミナルだつたのです。 

地下鐵は、北に新宿線、南に東西線が走つてゐますが、歩くには距離がありすぎますし、その地下鐵に乘ること自體が不便です。それで、バスで行くことにしまして、母愛用の 『みやすい 東京23区バスガイド』(塔文社) を借りて調べました。すると、總武線龜戸驛から出てゐるバスが、舊葛西橋を通ることが分かりました。のりば②からの龜29系統と、のりば⑤からの龜21系統です。 

さて、その龜戸驛まではどうするか、はじめぼくは、綾瀨驛から出てゐるバスで、新小岩驛まで行かうと思ひました。さうすれば、總武線で二驛です。すると、妻が、それなら車で新小岩まで送ると言つてくれまして、お言葉に甘えて出かけたのでありました。 

バスにはすぐ乗れました。いや、けつこう利用する人が多いのです。發車までにほぼ滿員になつてゐました。明治通りを南下し、小名木川を渡り、境川交差點を左折、淸澄通りを直進して右折したところのバス停が舊葛西橋でした。ナカヤさんは、すぐ分かりました。ちやうど二時でした。あまりおそく行つては失禮と思つてゐたのでぎりぎりでしたね。 

なにせ、ふだんは、午後四時には就寢するといふ早寢なのであります。もちろん早朝からパンを作るためです。それでも、明日は定休日だつたので、二時間ばかりお話しして歸路につきました。おみやげに、手提げにあふれんばかりのたくさんのパンやケーキなどを持たせてくださいました。もちろん、名物のあんパンをも入つてゐました。 

だいぶ重たくなりました。これではまつすぐ歸宅しようかなとも思つたのですが、それでは不甲斐ありません。バスで、さらに南砂六丁目まで乘り、古本屋のたなべ書店を訪ねました。ここは、東西線の南砂町驛からすぐそばで、何回か來たことがあつたからです。それが、見違へるほどきれいなお店に建て替へられてゐてびつくりしてしまひました。以前は、床がぺこぺこしてゐたものでした。が、なにしろ文庫本がたいへん豐富なお店で、今日も、北方謙三の『林藏の貌(上下)』と、井上ひさしの『四千万歩の男 忠敬の生き方』を見つけて買ひ求めてしまひました。 

夕食は外で食べて歸つてもいいといふ、奧樣のあたたかいご配慮を眞に受けまして、再び龜戸驛にもどり、近くにあつたうなぎ屋に飛び込みました。小さな場末のお店のやうでしたが、いやいやとても美味しくて、これで風邪が完治してくれたら言ふことはないんですがね? 

しかも、歸ると〈ゆず湯〉が待つてゐました。冬至なんですね。ぽかぽかになつて、氣分よく日記を書くことができました。 

 

今日の寫眞・・ナカヤさんとバス停。たなべ書店。それにうなぎ屋と〈億の細道〉、いや〈欲の細道〉に竝ぶ長蛇の人々。

 




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