十二月廿八日(月)戊寅(舊十一月十八日 晴

 

今日は一一一二〇歩歩いてきました。久しぶりのウオーキングでした。風邪をこじらせたこともあつて、近頃横になつてばかりゐたので、體力強化のために、心を鬼にし我が身を鞭打つて出かけたのでありました。幸ひ素晴らしい散歩日和でした。

 京成電車に乘つて、上野に行きました。そこからです。不忍池を横斷して、對岸の暗闇坂をめざしたんです。でも、あまりいい天氣なので、辯財天で一休み。蓮池に浮かぶ水鳥をながめてゐますと、池の縁に幾つもの石碑が目にとまりました。何ですかね? 

「ふぐ供養碑」、「八橋檢校顕彰碑」、「扇塚」、「スッポン感謝之塔」、「いと塚」、「東京自動車三十年会記念碑」、「真友の碑」(英語)、「暦塚」、「包丁塚」、「鳥塚」、「幕末の剣豪櫛淵虚冲軒之碑」、「魚塚」、「利行碑」、「めがねの碑」、その他、「蓮花の歌碑」、「駅伝の碑」など、一目で分かるのもあれば、謎のやうな碑もあります。けれども今日は眺めるだけにして先を急ぎました。 

不忍池を横斷すると、不忍通りに出ました。そこを渡つてビルの谷間を一〇〇メートル進んで突き當たつた道が、《暗闇坂》です。かつては加賀屋敷裏にあたり、樹木の茂つた薄暗い坂道だつたやうですけれど、今や、泣く子も黙る東京大學のキャンパス沿ひの靜かな裏通りといつた感じです。最初に出會つたのが、《弁慶鏡ヶ井戸》でした。「昭和二〇年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った」と書かれてありました。 

左手には、大學の校舎や研究所の出入り口が口を開けてゐます。その先には、《竹久夢二美術館》と《弥生美術館》が現れました、があまり關心がないので、その先、弥生四丁目と五丁目との境の角を右に曲がり、裏通りを通つて言問通りに出ました。 

そこにめざす《弥生式土器発掘ゆかりの地》碑が建つてゐました。説明板には、「明治十七年、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎、有坂蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見した。これが後に、縄文式土器とは異なるものと認められ、町名をとり「弥生式土器」と命名された。」とありました。けれども、後々、都市化が進むなかで發見地がはつきりとしなくなり、今日においても三個所の推定地が示されてゐるに過ぎないんですね。ちよつと驚きました。 

その推定地の一つに、サトウハチロー舊居跡付近があげられてゐましたが、さういへば、かつて江戸の地名が一擧に變へられたり消滅した大事件が起こりましたね。ぼくのところも、下千葉だつたのが近邊一律に堀切と變へられてしまつたのでしたが、その時、彌生町も變へられるところを、サトウハイローがごねたおかげでどうにか殘されたといふ經緯があります。ぼくは、今だに悔しいのですけれど、いつたいだれが、何のために江戸の由緒ある地名を滅ぼしてしまつたのか、思ひ出すだにからだが熱くなつてしまひます。はい。 

言問通りの彌生坂(又は鉄砲坂といふ)を、東大農學部の塀沿ひにたどつていくと、本郷彌生の交差點に出ました。ここは中仙道です。そして、交番の角を右折し、そのまま直進するのが岩槻街道ですが、次の信號を左折すると、懐かしい、〈中仙道を歩く〉の第一回目でやつてきた、《追分一里塚跡》がありました。ほんとに、探すから見つかりますが、だれもが素通りしてしまふ目立たない説明板が建つてゐるだけのわびしい記念碑です。 

その中仙道をへだてた眞ん前に、妻が敎へてくれたそば屋がありまして、まだ十二時前でしたけれど、天ざるを美味しくいただくことができました。しかし、このことを歸宅後つまに話したら、急に、あなたはわたしの話しをきちんと聞いてゐなかつたんでせう、と言ふのであります。何事かと思つたら、妻は天ぷら屋があるよと言つたらしいのです。ぼくは。天ぷら屋が天ぷらそばと聞き間違へたんですね。近くにそば屋があつたのが紛らはしいのであつて、「天丼の丸山」とでもあつたら間違へるやうなことはなかつたんです。次回は、この先にありさうな、その天ぷら屋をめざしたいと思ひます。 

さて、お目當ては、天ぷらだけではありません。本郷通りに竝ぶ古書店も覗きたいと思つて、中仙道を本郷三丁目に向つて歩きました。ところが、暮れだからなのか、すでに閉業してしまつたのか、入れたのは數軒だけでした。 

とッ、素通りしさうな町角に、《天上大風》と大書された石碑が目にとまりました。裏には、「医學部戦没同窓生追悼基金建之 平成一二年五月」とあります。 

ぼくはよくこの通りは歩くんですけれど、今まで見たことがありませんでしたので、おやッ、と思ひました。確かに良寬さんの言葉と文字です。 

 

《 東京大学医学部戦没同窓生の碑 

昭和六年(一九三一)から昭和二〇年(一九四五)まで十五年にわたる戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)で東京大学も多数の戦没者を出したが、戰後五〇年のあいだその実数は不明のままであった。このたび大学による学徒出陣の調査が行われ千七百人近い戦没者が明らかになったが、その実数は二千五百人にも達すると推定されている。 

私たち医学部卒業生有志はこの事実に驚き、悲しみ、世紀が変わる前に追悼の碑を建ててこの事実を後世に伝えるべく追悼基金を組織した。 

この「東京大学医学部戦没同窓生之碑」は、大学正門前のこの地にお住みの方々から温かいお心をいただいて建立が可能になり、同窓生あい集って建立するものである。 

「避けがたい状況下に、愛する人々のために一命を捧げた」若者たちのいたましくも悲しい事実を歴史に刻む碑であって、戦没同窓生への深い思いを 「天上大風」 という良寬の言葉に託した。 

今世紀最後の東京大学五月祭初日の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し、音楽と花を捧げて深い哀悼を世に伝えるものである。 

                                        平成一二年五月二十七日 

                                     医学部戦没同窓生追悼基金 》 

 

東京大學の正門の前でしたから、ぼくは、勘繰つてしまひました。この追悼碑は、戰没學生にたいする民間の人の「温かい心」で建てられたけれども、國立大學である東大内には受け入れる「温かい心」がなかつたといふことなんでせうね。さういへば、沖縄だつて、戰後、いまだに戰没者の調査が行はれてゐないさうではないですか。驚くよりあきれてしまひます。それでゐて、またあらたなる犠牲者を出すことになんら躊躇することなく、對米追從を強化しつつあるのが「アベ政治」なんです。決して忘れてはならないと改めて思ひました。 

と心の内で思ひつつ、そのそばの古書店には躊躇せずに飛び込み、おかげで、『活用自在 くずし字字典』(柏書房)を見つけてしまひました。少し下り坂になり、あ、ここは見返り坂といふ坂です、もちろんれつきとした中仙道ですが、そこをそのまま進むと、本郷三丁目の交差點です。目の前に、例の「かねやす」が、今日はシャッターが閉まつてゐて、その表面に書かれた大きな文字が存在を誇示してました。 

となりの大學堂書店さんも健在でした。相變はらず不景氣さうなお顔でしたが、おばさんもお元氣さうでした。そこでは、『日本古典全書 假名草子集 上下』(朝日新聞社)を求めました。

ちよつと疲れてきましたが、こんどは春日通りを東に折れ、吉川弘文館さんの前を通り、本郷中央教會を見上げ、本郷消防署、本富士警察署、そして切通坂を下りつつ、湯島天満宮を通り抜けて、上野廣小路に到着しました。あとは、中央通りを京成上野驛まで歩き、電車に乘るだけで歸路につくことができたのでありました。 

もう、眠たくて、堀切菖蒲園驛を乘り過ごしさうになりました。まあ、かういふわけで、ぼくの散歩は、それだけで「歴史紀行」になつてしまひました。さうですね、これを稱して、「散歩をすれば歴史に出會ふ」とでも言つておきませうか。めでたしめでたし。 

 

今日の讀書・・小松英雄著『丁寧に読む古典』(笠間書院)。詳しくは後日と思ひましたが、まあすごい本です。現在讀み進んでゐる『古今和歌集』の個々の歌の解釋の問題です。傳統的に凝り固まつたその道の權威である學者を向こうに回しての論述です。胸がわくわくしてしまひます。 

 

今日の寫眞・・今日の散策のセレクトです。

 



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