二月十九日(金)辛未(舊正月十二日・雨水 晴、暖かい

 

まだ體重が減つたやうには思へません。近頃、本を讀みながら煎餅やチョコレートなんぞをついつい口にしてゐるものですから、そのせいであることはたしかなんです。やはり、このへんで荒療治が必要かも知れないと考へてゐたら、さういへば今日は十九日で、毎月十九日の《國會包圍抗議行動》があるのを思ひ出し、いつその事、國會議事堂まで歩いてみようといふ氣になつたのであります。 

そのわりには氣がつくのが遅くて、妻に斷つて家を出たのは九時五十分でした。まづ、いつものやうに堀切橋を渡り、そのまま直進して新しくできた千住汐入大橋を越えました。このあたりは汐入、或いは鹽入りと言ひ、たぶん池波正太郎の「剣客商売シリーズ」にもよく出てくる濕地帶で、田圃や葦などが生えてゐるだけの場所だつたやうに思ふのですが、今や高層マンションが建ち竝び、汐入公園と名づけられた芝生の上では子どもたちが歡聲をあげてゐました。その植木の中に、花を咲かせた數本の木を發見して近づくと、それはカワヅザクラでした。伊豆の河津から移植したものらしいです。風もなく暖かくて、着込んできたマフラーを取りました。 

そこでトイ休憩しながら、三ノ輪に出るには、JR墨田川貨物驛の南側に回るか、このまま南千住驛めざして直進するか思ひめぐらし、そばにゐたよれよれのおぢさんの忠告を得て、南千住驛に進みました。いやはや、右側にはマンションが林立し、新興都市といつた雰圍氣です、が、左側は貨物列車の操車場です。東京都内では最大級の貨物ターミナルではないでせうか。貨車の切り離しや編成變へなど、見てゐて飽きない光景のはづなんですが、歩道からはまつたく見通せないのが殘念でした。 

何とかテラスとか、何とかシップとかいふいくつもの大きな商業施設が近づいてきたと思つたら、どうも行き止まりといふか、袋小路のやうな場所に出てしまひました。ところが、そこは南千住驛の東口廣場で、通り抜けるためには、ガードをくぐらなければならず、地下鐵日比谷線の入口を横切つて北口に出ると、そこになんと芭蕉の銅像が建つてゐました。 

その足下に、〈奥の細道 矢立初めの地 千住〉とありましたが、矢立初めの句碑(「行春や鳥啼き魚の目は泪」)は、この先の素盞雄神社にあつたはづです。芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは、元禄二年三月のことです。今から三二七年前、芭蕉四十六歳のときで、さういへば、父を誘つて日光街道を歩かうと思ひ立つたのは、芭蕉と同い年のぼくが四十六の時でした。この時は、粕壁までしか行けませんでしたが、晩年の父とのよい思ひ出となりました。 

北口のすぐわきが舊日光街道です。〈日光街道を歩く〉で通つたことを思ひ出しました。ついでですから、再び、回向院に入り、「史蹟エリア」に祀られてゐる、鼠小僧や高橋お傳や、相馬大作や橋本左内や雲井龍雄や吉田松陰らのお墓を訪ねました。(つづく)

 



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