二月廿七日(土)己卯(舊正月廿日 晴、風が強い

 

終日讀書。と言つても、なかば居眠りしながらでしたが、佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズの第九册、『春雷道中』(冬幻舎時代小説文庫)を讀み上げました。つづいて、十册目に入りました。それでもシリーズのまだ半ばです。 

まあ、讀んでゐて幸せな氣分になれるところが、この佐伯さんの物語運びのうまさなんでせうね。元氣を與へられると言つてもいいかも知れません。 

 

三月末を豫定した《史策會》の、野川散歩といふか野川紀行、今回のリーダーの計畫案がみなさんに了解されました。あとは櫻の開花・滿開が期待されるのみ。樂しみです。 

 

 (*以下、十九日《國會議事堂をめざす》のつづきです)

 〈手打ち蕎麦やなか〉さん、なかなか美味でありました。午後もすでに一時過ぎでしたから、腹がすいてゐたこともあるでせうが、疲れが癒されるやうな氣さへいたしました。 

ところで、坂には多く寺院の名前がついてゐるところがあり、それは、「江戸時代においては、寺院の名は、最もよく知れわたつた、しかも適確な目標であったからである。お寺のそばの坂に、そのお寺の名前がかぶせられたのには不思議はない」、とあるやうに、この善光寺坂も近くに善光寺があつたためにさう呼ばれるやうになつたやうです。が、その善光寺は「宝永二年に青山の現地に移転した」といふことです(橫關英一 前掲書)。 

店を出て、さらに善光寺坂を下つて行きますと、向かひにうなぎ屋が目に入りました。こんど通るときには食べようかなどと思つてゐると、お寺の門に出くはしました。臨済宗天眼禪寺とあります。そして、門の脇に、「東京都指定史跡 太宰春台墓」との説明板がありました。あまり聞かない名前ですね。いや、名前は知つてゐますが、どんな人物だつたのでせうか。これは宿題にして、とにかくお墓をおまゐりいたしました(註)。 

 

註・・「太宰春臺(延宝八・一六八〇年~延享四・一七四七年)。江戸中期の儒學者。師・荻生徂徠の經學を發展させ、獨自の説を發展させた。古文辭學派の儒學者。江戸で荻生徂徠に出會ひ、徂徠に師事した。經學、經世論に秀で、徂徠の説をもとに自説を發展させた。著書に『經濟録』などがある。はっきりした性格で人情家のため、慕ふ門弟は多かつた。」 

と、まあ辭典にはありましたけれど、歴史の流の中でどんな位置を占めてゐたのでありませうか。まづ、長野縣歌「信濃の國」の五番の歌詞で、太宰春臺は、

  「♪旭將軍義仲も 仁科五郎信盛も 春臺太宰先生も 象山佐久間先生も 皆この國の人にして 文武のほまれたぐいなく♪」  

と歌はれ、「なんと真田幸村、小林一茶、あの雷電爲右衛門をも差し置いて『県の譽れ』と稱えられてゐる。しかし残念ながら県民になじみがない人物といへる」、とも言はれてゐます。

 

信州飯田藩士の家に生まれた太宰春臺は面白さうな人物で、ネットの項目を繼ぎはぎして言ひますと・・・ 

伊藤仁齋の講義を聽いてその人格にうたれ、正徳三年(一七一三年)、友人の紹介で荻生徂徠の門に入り、詩文から儒學、特に古學へと轉向。 

ところがのちに徂徠の説を批判し、『易経』を重んじて全ての事象を陰陽をもつて解釋しようとした。また、征夷大將軍こそが「日本國王」であり、鎌倉・室町・江戸の三時代それぞれに別個の國家が存在したと説いた。その秀才と剛は、孔子の弟子子路になぞらへられた。といふ、ここのところは、ちよつとよく分かりません。

 さらに、ぼくが興味深く思つたのは、「春臺は儒學中心で、日本固有の思想を認めなかった」といふ點です。 

『辨道書』で、「神道は本、聖人の道の中に有之候・・神道は實に聖人の道の中にこもり居候、聖人の道の外に別に神道とて一の道あるにては無く候」と發言し、神道家から激しい批判を受けた。 

ところが、本居宣長は、『辨道書』というか太宰に理解を示す。太宰のやうな態度こそが儒學者であるといふのだ。儒者でありながら、また神道家でありながら、また佛家でありながら他の學問や宗教に理解を示すと言ふ態度に比べれば、「余が心には眞の儒者と思はるゝなり」。だいたい神道家は儒學をうらやんで神道説を整へてきたではないか、と宣長は批判する。もちろん、太宰は眞の儒者であるが、儒學そのものが無ければ世の中が治まらないと言ふのは誤りであると太宰を批判することも忘れない(『講後談』)。 

また赤穂浪士に對して、春臺は、赤穂浪士は幕府を相手とすべきであるのに、誤つて吉良を討つたとの觀點から批判したといはれてゐます。 

著書に『經濟録』・『經濟録拾遺』・『産語』・『聖學問答』・『辨道書』・『三王外紀』など。 

延享四年、六十八歳の時、江戸で没した。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺にあり、都の指定史跡となってゐる。なほ、出身地の長野縣飯田市中央通り三丁目には春臺の石碑と「太宰松」と呼ばれる松の木があるが、初代太宰松は一九四七年(昭和二十二年)の飯田大火で焼失し、現在は二代目。日本に『經濟』という言葉を廣めた人物でもある。 

まあ、大雜把ですが、以上勉強になりました。(つづく) 

 

今日の讀書・・佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズ第九册、『春雷道中』(冬幻舎時代小説文庫)讀了。 

 

今日の寫眞・・〈手打ち蕎麦やなか〉さんのおそば。うなぎ屋。臨済宗天眼禪寺山門。太宰春臺のお墓。それと、氣持ちよささうに日向ぼこするコヤタとモモ。でも、追ひ出された寅はどうしたらう。 

 



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