三月八日(火)己丑(舊正月卅日 曇天のち一時晴

 

のんびりと過ごしました。といつても、ぼくにとつてののんびりも休息も、結局は讀書につきるのですが、静かな一日でした。 

 

(*以下、二月十九日《國會議事堂をめざす》のつづきです) 

喫茶店〈こころ〉を出て、本郷通りを南にたどりますと、古本屋が何軒かつづき、途中に、良寬の「天上大風」と書かれた《東京大學戰没同窓生之碑》を見、赤門を過ぎたあたりからは下り坂になりました。 

この坂は、地圖によつては、〈見返り坂〉とも〈見送り坂〉とも呼ばれてゐます。「太田道灌のころ、江戸の罪人はここで追放され、涙ながらに別れを惜しんだ」(山野勝著『大江戸坂道探訪』朝日文庫)とありますから、追放される者にとつては〈見返り坂〉、それを見送る者は〈見送り坂〉と呼んでゐたんでせう。 

坂の下の本郷三交差點角には、例の、「本郷もかねやすまでは江戸の内」とうたはれた、歯磨粉屋の「かねやす」があり、この坂が江戸をあとに旅立つ者にとつての〈見返り坂〉であることを示してゐます。 

この交差點を右に曲がつて西に向かふ通りが春日通りで、その先で右にゆるやかにカーブして下つてゐます。これを〈東冨坂〉と言ひますが、これは、「明治四十一年、路面電車を通すため、開かれた」新しい坂道で(山野前掲書)、もとの坂道が、〈舊東冨坂〉として今も殘つてゐます。いささか急な坂道です。 

ぼくはその〈舊東冨坂〉をつまづかないやうに下りました。ビルに挾まれた片側一車線もない狹い道路ですが、その途中でびつくりした光景に遭遇しました。地下鐵丸の内線の電車がこちらに向つて走つてくるんです。あたりを見渡すと、右側のビルが切れたその下にトンネルが開き、赤い帶をした電車は、その大きな穴の中へ吸ひ込まれていつたのです。 

丸の内線は、地下鐵なのに、ところどころで地上に出て走ります。四谷驛のところがさうですし、御茶ノ水では神田川の聖橋の下を川すれすれに渡る光景も目にします。それと、この本郷三丁目驛を過ぎて、〈舊東冨坂〉の坂の途中から地上に出、後樂園驛を經て、茗荷谷驛までをまるで郊外電車のやうに走ります。まあ、それだけ東京の地形には山坂が多いといふことでもあります。きつとこれほど起伏に富んだ都會といふのは全國的にも珍しいのではないでせうか。 

「東京に出てきたときに、渋谷で地下鉄銀座線に乗ろうとして、地下を探しても駅がない。地下になくてビルの3階にあると聞いて 『エ──』 と驚きました。乗ってみたらわかった。渋谷駅を出たらすぐ地下に入る。東京は起伏の多い町なんです。・・・目まぐるしく町が変わっていくなかで、坂だけは江戸時代のまま残っている」(山野勝著『大江戸坂道探訪』解説より)。 

これは、日本坂道学会副会長のタモリのお言葉です。坂道には江戸の記憶が色濃くただよつてゐるのもうなづけます。(つづく) 

 

今日の讀書・・佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズ第十六册『旧主再会』と、第十七册『祝言日和』(冬幻舎時代小説文庫)讀了。 

「酔いどれ小籐次留書」シリーズ、殘すはあと三册。ここで、このシリーズの魅力と面白さを披露しておきませう。小籐次が命を捧げたおりょう樣のお言葉です。 

「御鑓拝借以来の赤目小籐次様の武勇の数々、どなたの心にも響くものです。それは赤目様が私利私欲で動かれるのではなく、純粋に無償の行為、忠義心や恋情に命を懸けられるお気持が人々の心を打つのです。赤目様の大きさをいちばんご存じないのは、ご本人様にございますよ」 

酔いどれ小籐次は、日本人のぼくたち庶民が最も憧れる人であり、また待ち望む人物像なんでせう。無い物ねだりなんでせうが。 

 

*今日の写真・・昨年暮れにも通りがかつた《東京大學戰没同窓生之碑》と、學生が「安倍たおせ!」と聲をはりあげてゐる赤門。それと〈舊東冨坂〉。四枚目は、三月四日、御茶ノ水驛から池袋驛に向かふ地下鐵丸の内線の電車最後尾車内から見た〈舊東冨坂〉。 

立體寫眞一組(千住河原稻荷神社の足立区最大の狛犬。阿吽一對のうちの「阿」で雄の狛犬。それと東京新聞切り抜き二枚。

 



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