三月九日(水)庚寅(舊二月朔日・朔 曇天のち雨

 

今日ものんびりと過ごしました。けれども、二月十九日の《國會議事堂をめざす》の日記がまだ書き終はつてゐなかつたので、ラストスパートをかけて、特に、靖國神社と千鳥ケ淵墓苑のことなどをあれこれ調べました。 

 

(*以下、十九日《國會議事堂をめざす》のつづきです) 

〈舊東冨坂〉を下りきると、そこは南北に走る白山通りで、左折すると、斜向かひにそびえる異樣な姿の後樂園の遊園地が目に飛び込んできました。「讀賣巨人軍は永遠に不潔です!」の象徴である何とかドームを視野の端に置きつつ、見なれた水道橋驛に至りました。古本屋街もすごそこといふところまでやつてきました。 

けれども、今日は、古本屋をのぞいてゐる暇はありません。國會議事堂まで到達できるかどうか、あと一息ですけれど、油斷はできません。それで、古本屋の誘惑を避けるために、日本書房を過ぎたあたりで右に曲がり、さらに西秋書店の前を過ぎてからは左右曲折しつつ、靖國通りの俎橋(まないたばし)までたどり着くことができました。 

太陽が西に傾き、眞つ正面に顔を照りつける日差しによつて、まはりがシルエットに見えはじめた景色の中を、九段坂をのぼり、靖國神社に到着しました。 

ここまで二〇三〇〇歩でした。 

 

靖國神社の入口の丁字路は早稻田通りの起點です。改めて標識を確認いたしました。何年も前のことですが、ここを出發點として高田馬場驛まで歩いたことがありました。さういへば、先日はその逆に、早稻田から神樂坂、飯田橋驛の牛込見附跡を經て神保町まで歩きましたね。

 

さて、靖國神社に向かひ、參道を大村益次郎像まで歩き、再び靖國通りに出て、靖國神社を後にしました。ぼくは、靖國神社がにがてです。ほんとは避けて通り過ぎてしまへばよかつたんですけれど、避けてしまつては、この國の現実をを正しく認識することはできません。せめて參道を歩くやうに、時々は考へます。 

そこで、最近、と言つても昨年の八月なんですが、東京新聞の〈デスクメモ〉を讀んだとき、さうだ、と心の中で何度もうなづき、そして合點した、簡にして要を得てた内容の短い文章がありますので、その文面を全部記します。

 

「靖国は恐い。イスラム過激派の自爆攻撃と殉教の美化を 『遠い世界の異様なこと』 と感じる多くの日本人が、ここには抵抗なく参拝する。慰霊の優しさは、『殺し、殺される現実』 を浄化し、悲しさを 『国や家族のための犠牲』 という誇りに転化する。戦後も戦前もない空間。その機能はまだ止まっていない」

 

つまり、靖國神社の本質は、自爆と殉教を美化して、國家權力に都合よく國民を死なせる施設であり、その戰爭自體を正當化する施設であるといふことです。つきつめれば、國民が權力者のために死ぬことが出來るやうにし、お國のために犠牲になつたといふ誇りや慰めまで與へてしまふ装置なんです。 

また、無意味な、それこそ犬死にを強いられた人々を祀ることで、彼らを死へと追ひつめた責任者が、それで責任が問はれなくてすむやうにしてゐる場所でもあります。 

このやうに、靖國神社は、戰爭ができる國にしようともくろむ現在の權力者にとつては、なくてはならない装置であり神社なのであります。國家護持なんてとんでもありません。 

 

ただ、悲しいといふか難しいのは、遺族が利用されてゐることに氣がついてゐないといふことです。まあ、息子や父や夫や戀人の死が犬死にだつたとは思ひたくないといふの當然でありますけれど、靖國に祀られてゐるから慰めになり、またそれを誇りに思ふのは、まさに彼らを死に追ひやつた者たちの思うつぼにはまつてゐるのではないかと思はざるを得ません。 

ぼくにだつて祖國のために、愛する人々のために戰ふといふことはわかります。そのための専守防衛であります。しかし、馬鹿げた權力者が仕掛けた愚かな戰爭のために利用されたくはありません。何故わざわざ 國民の命が危險にさらされるやうな戰爭が出來る國にしなければならないのでせうか。 

「アベ政治」の根本的な誤りは、國家は國民のためにあることを忘れ、國民は國家のために仕へるのが當然のやうな發想にあります。國民の命が危險にさらされやうとも、武器を玩具のやうに使ひたくて仕方ない愚かさにあります。例の米軍ジェット機に乗つて喜々としてゐる姿を忘れることはできません。 

國家は國民のためにあるといふことを忘れた者にとつて、靖國神社がいかになくてはならない神社であるかがよくわかります。こんな神社はいらないし、なくてもすむやうな國づくりこそ急務なのです。さういふことが、靖國神社問題の根底にはあります。 

 

だから途中で出て、素直な氣持ちでその戦没者を悼むことのできる千鳥ヶ淵戰没者墓苑に向かひました。まだつぼみも定かではない太い櫻の木が立ち竝ぶ千鳥ヶ淵に沿つてしばらく歩くと、千鳥ヶ淵戰没者墓苑の裏口に着きました。ところが、扉は四時で閉まつてをり、中に入ることができませんでした。それで、入口の説明を記しておきます。 

「ここはさきの大戦において国のために戦ってなくなられた方々のご遺骨をお納めしてある国立の墓苑であります。ご遺骨は政府が各主要戦場から収集し祖にお迎えしたもので、本苑はこれら戦没者を永く追悼するため昭和34年3月28日創建されました。環境省」 

千鳥ヶ淵戰没者墓苑は、古い地圖には「無名戦士の墓」と記されてゐます。これではちよつと紛らはしいのですが、いはゆる戰没兵士だけの墓ではなく、「軍人軍属のみならず一般邦人をも含み、また既に遺骨の一部を遺族に渡された人々をも含む全戦没者の象徴的遺骨を奉安した、国立のお墓であります」。 

 

〈補足〉・・千鳥ヶ淵戰没者墓地と靖國神社に關して、ネットで調べてみました。贊否兩論、樣々な考へ方や意見を知ることができました。そのなかで、ぼくが納得出來たご意見を代表して、以下に二つ寫しておきます。 

 

*〈問い〉 靖国神社と千鳥ケ淵墓苑は、どう違うのですか。また無名戦士の墓というのは、どういうものですか。 

〈答え〉 東京・九段の靖国神社は、戦前は国家と宗教が結合した国家神道の体制下、陸軍省と海軍省が共同で管理(明治二十年・一八八七年以後)する軍事的宗教施設でした。「天皇のため名誉の戦死」をしたものを祭神(「英霊」)としてまつり、国民に「九段の桜花と散る」ことを誓わせ、軍国主義と侵略戦争推進の精神的支柱の役割を果たしました。 

 戦後、この歴史の反省の上に政教分離の原則をうたった新憲法がつくられ、靖国神社は都知事認証の私的な宗教法人となりました。神社という宗教施設であることは変わりません。同神社は、昭和五十三年(一九七八年)、侵略戦争推進の責任者のA級戦犯が合祀(ごうし=一緒にまつられる)されるなど、軍国主義と侵略戦争を美化し、憲法の恒久平和の精神に反する実態となっています。欧米のマスコミは、同神社を「戦争神社」(ウオー・シュライン)と特徴づけています。日本を「戦争する国」に変えようとする勢力は、戦死者が出た場合に備え、信教の自由と政教分離の原則を踏みにじる靖国神社への首相の公式参拝、さらに同神社の国営化をねらっています。

 

 これにたいし、東京・千鳥ケ淵墓苑は、名前の特定できない戦没者の遺骨を納める国立の無宗教の墓苑です。戦後、政府と民間団体が海外各地で収集した戦没者遺骨のうち引き取り手のない遺骨は、厚生省が保管していました。無名の遺骨は増え続け、収納施設が必要になりました。靖国神社側は、同神社と関係のない納骨施設ができると神社の衰退につながるとして反対しましたが、昭和三十四年(一九五九年)三月、無宗教の千鳥ケ淵戦没者墓苑ができました。現在、墓苑は、環境省が管理し、諸外国の「無名戦士の墓」(メモリアル・パーク=共同墓地)と同様の性格です。 

 

*「千鳥ケ淵戦没者墓苑は、日本国政府が設置した戦没者慰霊施設である。政教分離の原則により、特定の宗教宗派に属さない施設とされている。戦没者の慰霊・追悼のためならば、憲法違反の疑いもある靖国神社よりも、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の方が相応しいはずである」。(つづく) 

 

今日の讀書・・佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズ第十八册、『政宗遺訓』(冬幻舎時代小説文庫)讀了。 

 

今日の寫眞・・後樂園遊園地。俎橋。九段坂。靖國神社。千鳥ケ淵墓苑正面入口。愚かな首相。

 


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