三月十三日(日)甲午(舊二月五日 曇天

 

今日は、「酔いどれ小籐次留書」シリーズが完結しないまま終はつてしまつたことに、ちよいと後ろ髪を引かれながらも、二月十四日以降、浮氣をして放り出してゐた、小松英雄先生の 『伊勢物語の表現を掘り起こす』(笠間書院) を改めて讀みはじめました。まあ、『伊勢物語』 の註解書といつたところですが、ほとんど文法に煩はされることなく、しかも、前後の文脈をおさへながらの説明ですから、なんと言つても内容がよくわかります。それに、今までのご本と同樣に、幾種もの注釋書を叩き臺にしてゐるところが面白い。

  第三段から一段づつ、第六段まで、段ごとに原文(影印本)を讀みながら、註解を追つていきました。すると、以前、我が『歴史紀行(六)平安京編二』 で取り上げた、在原業平と藤原高子との道ならぬ戀の話を思ひ出しました。それとともに、もう四年も前に求めて、本の山に埋もれかけてゐた、関直彦著『物語のはじまりのものがたり 「竹取」「伊勢」の表出意識』(新風社)といふ本を見つけ出してきて、その第二章を讀みはじめたら面白くて、たうとう肝心なところを讀み上げてしまひました。

  何が面白いかといふと、いかに「物語」は書きはじめられたかといふ問題です。『竹取物語』は現存する我が國で最も古い物語であるといふことは、周知の事ですが、これが物語られるには、あまりにも多くの問題が含まれてゐて、ぼくの手におへるところではありませんので省きますが、『伊勢物語』 がどのやうにして成立したかも實に興味深いものがあります。 

 

『伊勢物語』 は、在原業平とみられる主人公の一代記のやうにまとめられてゐます。と、「みられる」といふところがミソでして、あからさまに名前を出せない事情がこの物語にはふんだんに見られるからであります。 

そもそも 『伊勢物語』 の底本は、ご存じ 『古今和歌集』 であります。現在、寢るときに毎日少なくとも一首は讀んで、味はひつつぼ~つとしながら眠りに入るやうにしてゐるのでありますが、さういへば、業平君の歌がすでに三首ばかり出てきましたね。業平君の歌は全部で三十首取り上げられてゐて、しかも 『古今和歌集』 の全編に散在しておさめられてゐます。それだけ讀んでも面白いのですが、さすが、考へる人はゐるものなんですね。

 

以下、『物語のはじまりのものがたり』 から引用します。 

「在原業平の和歌の特異性は、和歌に添えられた『詞書き』が際立って長文であるということだ。そして、そのいくつかの『詞書き』をつなぎ合わせたならば、一篇の物語を形成し得るのではないかという誘惑を読む者に与えずにはおかないものである。・・ 『伊勢物語』 の〈作者〉にとっても、どんな素材よりもすぐれて、〈物語〉製作へとおのれを駆り立てたものは、『古今和歌集』 業平歌の『詞書き』であった」。 

たしかに業平君の和歌の『詞書き』は、他の歌人にくらべて長く、それも多くて、讀んでみると、なんだ、『伊勢物語』 の下書ぢやあないかと言ひたくなる體のものなのであります。 

ところが、「業平の歌は、その詞書きも含めて、『物語』(虚構化)を指向していない。むしろそれは、『心の真実』という事実性へと向かっている」、と著者は言つてゐます。 

さう、だからこそ、その『心の真実』を解き明かし、味はふところに 『古今和歌集』 鑑賞の妙味があるとぼくは思ふのであります。 

ところが、「この業平歌と詞書きから、〈作者〉は、ストーリーを抽き出し、しかも、このような道ならぬ恋に溺れ込んでいった『男』を」 物語るのであります。しかし、何がさうさせたのか、むろん野次馬根性的な好奇心があつたであらうことは否めませんが、殘念ながら、ぼくには著者の言つてゐることがよく理解できませんでした。 

ただ、詠み人の心の眞實を味はふのが和歌鑑賞の極意ならば、物語られた言葉は、讀む者の現實理解を促し、主人公とともに新しいといふか、異なつた人生(憧れの人生と言つてもいいもの)を歩む手がかりを與へてくれるのではないか、とぼくは思ひました。 

 

物語と言へば、ぼくがぼくの人生を歩みはじめた學生時代には、實に多くの書物のお世話になりましたが、その一人に、河合隼雄さんがをられます。二〇〇七年七月に亡くなられましたが、その著書に多大なる影響を受けました。最近では、小川洋子さんとの對談、『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫)を讀みました。その中で、改めて、自分の物語をつくることがいかに大事なことかを敎へられました。きつと、人は、自分の物語の中でしか生きられないものなんでせう。そして、それを自覺するかしないかは、實は決定的な違ひを人生にもたらすとぼくは思ひます。 

物語るとは、思ひ出すことであります。これはけつこう辛いものがありますが、思ひ出しつつ、辻褄を合はせること、言ひかへれば、人生の歩みの長も短も、實は必然性をもつて結び合はさつてゐたことを受け入れることが、そのまま自分の人生の物語をつくるといふか、自覺することにつながるのだと思ひます。さういへば、ぼくがつづけてきた「日記」は、どうしても納得できなかつた自分の過去を思ひ出しつつ受け入れる作業だつたと思ひます。 

だいぶ横道にそれてしまひましたが、物語られた業平君の最後の歌を紹介しておきませう。 

「つゐにゆくみちとはかねてききしかときのふけふとはおもはさりしを」(第一二五段) 

 

今日の讀書・・今日から、小松英雄先生の『伊勢物語の表現を掘り起こす』(笠間書院)を改めて讀みはじめました。また、関直彦著『物語のはじまりのものがたり 「竹取」「伊勢」の表出意識』(新風社)の第二章を讀了。 

ところで、佐伯泰英著「酔いどれ小籐次留書」シリーズは圖書館から借りて讀んだんですが、それがまあみな汚れてゐて、古本だつたら決して賣り物にはならないでせうね。ぼくだつて買はうとは思ひませんね。やはり古本がいいです。 

 

今日の寫眞・・今日のお勉強の教科書。今日の切り抜き。そして、ステレオ立體寫眞は神保町の裏道、喫茶店ミロンガとラドリオがある路地です。

 



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