三月十六日(水)丁酉(舊二月八日・上弦 曇り

 

小松英雄先生の『伊勢物語の表現を掘り起こす』(笠間書院)、殘りあとわずかのところまで讀みすすみましたが、先生の解きほぐしには、もう感動さへ覺えます。例へば。 

「なほゆきゆきて むさしのくにとしもつふさのくにとのなかに いとおほきなる河あり それをすみた川といふ」 

この文について先生は、「この部分のことばの続きは、日本語話者なら理屈抜きで理解できるでしょう。しかし。ここに古典文法を持ち込んだら厄介なことになります」。 

と言ひつつ、どんなに厄介なことになり、それを學生に強要するものだから、面白いものも嫌になる、それが現在の古典の敎育であると言つて憤慨をぐつと押さへつつ述べてゐます。 

「古典教育の理想はともかくとして、その実態は、学習者に古典文法を覚えさせて古文を現代語訳させることが、ほとんどすべてのようです」。 

古典文法を金科玉條とした教師や國文學界の研究者に對して、齒に衣着せぬご意見を先生は、遠慮されません。偉いといふしかありませんね。 

だつて、樂しみながら讀めればいいのであつて、正確に、文法的に誤りがないやうに讀まなければならないとなつたら、現在出版されてゐる本だつて、どれだけの人が、誤解しつつそれでも樂しんでをられることか。わざわざ、嫌いにさせるために無理やり讀ませる、學校敎育なんて、本末轉倒も甚だしいと、ぼくも言ひたいです。

 

「『京にはみえぬとりなれば みな人 みしらず わたしもりにとひければ これなむみやことり といふをききて 〈 なにしほはば(それが本當ならば) いさこととはむ みやことり わかおもふ人は ありやなしやと(生きてゐるのかゐないのか) 〉 とよめりければ ふね こそりてなきにけり』 

この前後は、付かず離れずの関係で句節を継ぎ足した叙述なので明確な切れ目はありませんが、素直に読みさえすればよくわかります」。 

さうです、文法が分からなければ讀めないやうな文章を、平安時代の人が書くはづがないんですよね。先生は、今ぼくたちが喋つたり書いたりしてゐる日本語に注意深い人ならば誰でも讀んで理解できると、かうおつしやつてをられるのであります。 

それで、ぼくも、さうか、さうなんだと、漠然としか分かつてゐなかつた 『伊勢物語』 がよく分かつてきました。ありがたうございます。 

 

それと、竝行して讀んでゐた、池田弥三郎著『東京の中の江戸』(弥生叢書) を讀みあげてしまひました。これまた興味深い内容でしたが、考へてみると、平安時代の歴史や文學と、つい最近の江戸・明治の歴史や文學を學んでゐるといふのは、まるでステレオ立體寫眞を見るやうだなと思ひます。むろん、平安時代と江戸・明治の時代は、どんなにきつく寄り目をしたつて、重なりあひませんが、いつかは必ず重なりあつて立體的に見える時がくるにちがひないと信じて、兩方の勉強をしつつ、開いた時代の間隔を埋めて行きたいと思つてゐる今日この頃なのであります。

 

今日の讀書・・池田弥三郎著『東京の中の江戸』(弥生叢書)讀了。 

 

今日の寫眞・・我が家に住まふ猫たち。

 



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