四月七日(木)己未(舊三月朔日・朔 雨のちやむ

 

昨夜仕上げた 『歴史紀行六十一渡良瀨紀行』 を丁寧に讀み返し、ところどころ訂正をほどこし、晝ごろになつて、やつとみなさんにメールに添付してお送りすることができました。それで、宿題を提出し終へた學生のやうな氣持ちになつて、あとはごろりと横になり、なんだか夕方まで寝過ごしてしまひました。 

 

さて、これからの勉強ですが、《散歩をすれば歴史に出會ふひとり歩き》は、氣の向いたときにやればいいことで、まづは、やはり基本に立ち返りたいと思ひます。 

と思つて、草葉の陰、ではない本箱の陰をうかがふと、うつすらとほこりに被はれた「古記録」が顔をのぞかせました。東京大學史料編纂所編纂・大日本古記録の 『貞信公記』 です。藤原忠平(八八〇~九四九)の日記ですが、栞のはさまつた頁を開いてみると、二〇一三年十一月四日の日付が記され、そこで中斷してゐたことがわかりました。 

二〇一三年十一月といふと、《中仙道を歩く》の第十回が行はれた頃です。倉賀野宿から板鼻宿まで歩いたのが十三日でしたから、そろそろ、「中仙道を歩く」紀行に集中しはじめたので、中斷せざるを得なかつたんだらうと思ひます。 

ところで、二年半ぶりに開いてみると、中斷したところの日付は、延喜二十年(九二〇年)、醍醐天皇の時代です。すでに、『古今和歌集』 はできてをりましたが、その時代の雰圍氣を感じるには、當時の日記をみるのが一番だと思ふのです。 

ところが、當の 『貞信公記』 の二月廿八日の記録は、「直物宣旨等給典殿」、といふだけの記述です。もちろん、當時右大臣だつた忠平ですから、朝廷の儀禮儀式を中心に記録してゐたんでせう。これだけでもでもいいとしなければなりません。ぼくの日記に比べやうもありませんが、何が何だかわかりませんね。「直物宣旨等」の「直物」とは何か、それを宣旨すること等を「典殿」に給するとは何を意味するのか、考へただけで氣が遠くなるのでやめておきます。 

でも、その前の正月十八日は、宮廷年中行事の一つである賭弓(のりゆみ)が行はれ、「賭弓、左勝」とあり、左右の陣の左陣が勝つたと記されてゐます。また、同廿日なんか、「痔多出物、不□病者」とあつて、右大臣さんも痔には勝てないんだなあと納得。これはぼくにもわかりました。が、かういふ古記録を讀むコツは、その日付前後のことを學問的に研究するのならいざ知らず、わからないことはわからないなりに讀みすすんでいくのが長續きする秘訣だと思つてゐます。 

でも、たまに、おや、と思はしめられて調べものがはじまることもあるんです。これが大事ですね。さらに、左右に、『史料綜覽』 と 『大日本史料』 を置いておけばもう恐いものなし。分からないなりにどうにか進んでいけるものでございます。 

 

今日の寫眞・・最近の氣になる新聞記事。

 

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