四月十二日(火)甲子(舊三月六日 晴のちくもり

 

今日もまた、『貞信公記』 を讀みつづけました。和風漢文といふか、變體漢文とも呼ぶやうですが、何しろ、古代中國のいはゆる純粋の漢文とは違つて、いささかいいかげんなのであります。だからといふわけではありませんが、あまり文法にこだはるのは適切ではなくて、まあ、意味がとれればそれでいいといふところ、多々であります。 

さて、今日は昨日のつづき、延長二年(九二四年)の七月以降、十二月まで讀みました。何の先入觀もなく讀み進んだのですが、何がさうさせるのでせうか、氣になる個所がいくつも現れました。

 

ひとつは、藤原忠平さんのからだの容態のことです。「七月廿五日、從容散服始」、とあつて、腋丹」とはまた別の「從容散」といふ藥を飲み始めてゐます。これも、「九月十二日、從容散服了」とつづき、定量を飲みつづけた樣ですね。六十九歳で歿するまでがんばれたのは、「腋丹」やこれらが効いたためでせうか。

 

それとまた、奥さんの「子」さんのことが氣に掛かります。 

「八月廿九日、有召、依病者重煩、不參入」とあつて、お召しがあつたのに、奥さんの病氣が重いので參上することができなかつたといふのです。九月になつても、「二日、乞假(いとま)三日、依病者也」とつづきます。そして、たうとう、十二月廿六日の曉には、「女房入道」と記され、出家してしまふといふ結末を迎へるのであります。 

しかも、「十二月廿九日、廿二日以後、依病者不參入」とありますから、ずつとつきつきりでゐたんでせう。最高權力者にしては、たいそう妻思ひの人物だつたのかも知れません。

 

また、家族のことでは、「七月十五日、大德子生」、息子の大德(師輔)に子(伊尹)が生まれたと記してゐます。彼らは、のちのち歴史を動かした人物ですから、ここで名前くらゐ覺えておきませう。「もろすけ」、「これまさ」と讀みます。

 

さらにまた、佛教行事のことが氣にかかりました。偉い坊さんを呼んで、樣々な法事がなされてゐるんです。例へば、「九月十六日、内裏御修法始、僧正爲阿闍梨」と記された、「僧正」は、第十代天台座主であつた僧命和尚であります。「天台座主」とは、比叡山の統括者、「修法」とは、加持祈祷のこと、「阿闍梨」とは、その時々に祈祷の勅命を受けた僧のことですが、他に、やはり當時第十二代天台座主であつた玄鑒和尚、その弟子であつた代十四代座主の權律師義海が登場します。 

この義海については、「十月三日、令義海師爲室病修法」と、義海をして、奥さんの病氣ために加持祈祷を行はせたことが記されてをります。

 

そして極めつきが、尊意和尚です。「十一月八日、於意師(尊意)坊、令行熾盛光法」とあります。「熾盛光法」は、「しじょうこうほう」と讀み、眞言密敎における災害、厄難を除き、國家安泰を祈る最勝の修法といふことですが、これを、忠平さん、國家のためだつたのか、はたまた奥さんのためであつたのか、そこのところがちよいと曖昧にして記されてゐます。

 

まあ、當時は、佛教も神社も、國家のための宗教でしたから、庶民は置き去りです。でも、權力者は、個人的な願ひを祈れる立場にゐたんです。悔しいぢやあありませんか! 

それはそれとして、尊意和尚は第十三代座主で、この時六十一歳。平將門が敗死した天慶三年(九四〇年)に、七十七歳で入滅してをります。 

このやうに、錚々たる僧侶を自由に、たぶん個人的にも使へたのが、藤原一族であり、その權力の大きさを思はせられてしまひます。 

 

今日の寫眞・・二〇一四年三月、はじめて寫眞におさめたノラの寅と、その頃のラム。そして現在、寅がじつと耐へてゐる寢床。

 



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