四月廿五日(月)丁丑(舊三月十九日 晴

 

月曜日です、今日はいい天氣、暑いくらゐです。心して弓道場へ行き、お稽古をしてまゐりました。仲よし三人組と中辻先生、それに的中の名人小野さんの五名で、樂しくも和やかに、いいお稽古の時間を過ごすことができました。 

 

*國會議事堂への道(その四) 

今や普通の商店街なんて言ひましたが、さういへば、このあたりは淺草から吉原への道筋でもあつて、芝居小屋といひ、吉原通ひといひ、「四時の賑わいいわんかたなし」と言はれるのは當然だつたでありませう。まあ、それらを思へば隔世の感否めずといふところなのでありますね。

 

それと、つけ加へておきたいのは、例の住居表示變更問題ですが、あれなんて、郵便番號ができ、宅急便がはじまつた時點で、まつたく不必要だつたことが明白になりました。恐らくそれもわかつてゐて變へたんでせうから、これを惡意と言はずしてなんと言へばいいのでせう。それを、お上に言はれたままに、唯々諾々として協力してしまつたなんて、もう好い加減にしてほしいと思ふのであります。それが江戸子のいいところでもあるのよ、と言はれてしまへば、邪險にはしにくいですけれども、まつたく齒痒いことこの上ありません(尚、住居表示問題については、三月七日の「ひげ日記」に詳しくまとめてあります)。 

 

さうさう、目指すは天健(てんたけ)の天丼なのです。熱くなつてゐる場合ではありません。今日はやつてゐるだらうかと、實は氣が氣ではないんです。前に二度きて二度とも閉つてゐたからで、なんだか今日の最大の目的は天丼にあつたみたいで、ぐずぐずしてもゐられないのであります。 

そこで、淺草四丁目あたりの信號を左折して進路を天健に定めました。さうしたら、今までとはうつてかはつた、なんとも雰圍氣のいい料亭や飲み屋が竝びはじめたんです。しかも、歩道寄りには、『奥の細道』の句碑が竝んでゐて、それが千住から酒田までの、ざつと數へて二十四立つてゐたのです。ただ何のために立てられたのかはよくわかりません。 

説明板には、この通り、この先の言問通りまでのあひだのわづかの距離ですけれど、柳通りと書かれてゐます。眞つ晝間でかうですから、宵闇せまればさらに賑やかに、華やかに、情緒豐かな通りになるんでせう。こんなところもあるなんて、これは新發見です。 

 

言問通りに出てからは、最短距離を行くために地圖を見い見い路地を進みました。この邊を奥山といふのでせうか。右手には花やしき遊園地、左手を行けば淺草寺の裏に出ますが、脇目を振らず、初音小路とか、西參道商店街とか五重塔通りとかの小さな飲み屋が犇めく路地をさらに行くと、いきなり人の波に呑まれました。公園本通りに出たのでした。 

ここはなぜかもつ鍋の店が多く建ち竝んでゐて、すでにいいにほひを漂はせて、お客を誘惑してゐます。さういへば、その一軒に、父と入つたことがありました。まだ伊豆にゐた時でしたが、仕事で出て來た時に、父を誘つてやつてきて、淺草演藝ホールに入つたら、まつたく偶然にも、柳家小さんの襲名披露が行はれてゐたのです。二〇〇六年十月十三日のことでした。 

二〇〇二年に亡くなつた、人間國寶だつた先代の柳家小さんの息子の襲名ですが、彼はぼくと同い年でした。で、その時には、ぼくの大好きな落語協會の鈴々舎馬風會長はじめ、扇橋、金馬、圓僑などなど落語協會の大物が口々に述べる口上が大変に面白かつた記憶があります。

 

それからもつ鍋の店で生ビール一杯を二人で飲み、牛すじの煮込みを食べたのですが、その時父は、演藝場もこのやうな店にも生まれてはじめて入つたよ、と言つたのにはぼくも驚きました。 

澁谷で生まれ、御徒町で育つた人にしては、いかにも勤嚴過ぎます。まあ、寫眞を見る限りですけれど、庄内鶴岡出身の祖父も、いや祖父以上に安房館山の海女であつた祖母は堅物だつたやうに思はれます。昭和十六年に亡くなつた祖母でしたが、何と言つても「愛國婦人會」に入つてゐた人ですから(『歴史紀行十八我が家の古文書發見』參照)。また、父の下には三姉妹がをり、それで外で飲んだり遊んだりができなかつたのではないかと思ひます。 

それにしても、日本光學に勤めてゐたときに、仕事が終り、夕方になると、毎日決まつた時間に、といふより、何分何秒になると、がらりと戸を開けて歸宅するなんて、信じられますでせうか。そんな父でした。(つづく) 

 

今日の讀書・・中一弥著『挿絵画家・中一弥』(集英社新書)、昨夜讀了。著書といふより、聞き書きでしたけれども、それがまた讀みやすいといふか、聞きやすかつたです。

この本は、池波正太郎記念文庫で「追悼 中一弥 挿絵原画展」を見に行つたあとで買ひ求めて讀んだんですけれど、面白くてほぼ一晩で讀んでしまひました。たくさんの插繪も載つてゐて興味深く、ごてごてした繪より、筆一本で描かれた插繪にぼくなんか惹かれるものがあります。また、そこで知つたことですが、なんと冒険小説家の逢坂剛は、中一弥の三男だつたんです。そのへんの事情が知れてそれも面白かつたですね。 

そもそも、この「追悼 中一弥 挿絵原画展」は、先日神保町から淺草まで歩いたときに、榊神社のあたりの路地の掲示版で見たのでした。中一弥さんは、「池波正太郎作品の挿絵を描き続け、平成二十七年十月二十七日に、一〇四歳の天寿を全うし逝去され」たさうなのです。「追悼原画展」は五月十八日までやつてゐます。 

又、風間真知雄著「耳袋秘帖」シリーズ第四彈、『深川芸者殺人事件』(だいわ文庫)讀了。 

 

今日の寫眞・・言問通りから振り返つた柳通りと『奥の細道』の碑。花やしき前。それと、淺草演藝ホール前にてと、父の父母。東京市のチンチン電車の運転士だつた文四郎と「愛國婦人會」のつる。最後は、中一弥著『挿絵画家・中一弥』(集英社新書)と「追悼 中一弥 挿絵原画展」のポスター。

 




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