五月廿三日(月)乙巳(舊四月十七日 晴、暑い

 

今日の讀書・・本筋の『貞信公記』のもどり、延長三年(九二五年)八月から讀みだしました。すると、今までも記されてゐたはづですが、お坊さんを呼んで「誦經」とか、「修法」とか、「大般若經轉讀」とか、「修善」とかの、「私的修法」とも思はれる佛教行事に埋め盡くされてゐる感じがしましたので、ちよいとこのへんで、當時の佛教について調べてみました。 

參考書は、速水著『平安貴族社会と仏教』(吉川弘文館)です。これは、一年前に購入した本ですが、價格が安かつたので、どうにか買ひ求めることができた貴重な本なんです。定價は三二〇〇圓ですが、どこの古本屋をのぞいても、定價以下の値段で置いてゐるところはどこにもありませんでした。ネットで求めやうとしたら、何と六三〇〇圓してゐました。それでは、ぼくの古書探索の道に反するので、ぐつと我慢をしてゐたところ、例の古書會館の即展で八〇〇圓で、それでも妥協して求めたのでありました。 

速水侑さんの本は、すでに、『呪術宗教の世界』、『地藏信仰』、『観音・地藏・不動』などの新書本を讀んでゐたので、内容的には信賴がありました(〈中仙道を歩く三〉參照)。はたして、今日は、その「第一章 貴族社会と秘密修法」の、「第一節 秘密修法の成立」と、「第二節 摂関体制形成期の秘密修法」を讀んで疑問が氷解しました。 

案の定、とても分かりやすくて、それまで、鎮護國家のためであつた佛教が、なぜ「現世における不安の除去のため、呪術的宗教に向か」つたのか、すなはち、「かつて天皇を中核とする律令社会の繁栄を祈念した鎮護国家中心の修法は、貴族の個人的現世利益を祈念する修法へと、次第に変質して行」つたのか、その經緯が判明しました。 

ただ、藤原時平、そして、『貞信公記』の著者、忠平さんの時代はまだ、その移行過程にあつたと思はれます。だいぶ長いのですが、大切なところですので、本文を寫しておきます。 

 

「律令貴族社会は、律令制的身分秩序と貴族の氏族的結合という、二つの支柱の上に成立していたといえるが、藤原摂関体制は、この二つの支柱を、根底から動揺させた。もはや貴族社会の上下を律するものは、律令制的身分秩序よりも、天皇との外戚関係、あるいは天皇外戚としての摂関家との親疎といった、私的血縁関係に立脚する、きわめて私的個人的なものとなった。藤原氏との政争に敗れた貴族は没落し、その氏族的結合は崩壊した。摂関家には、私的保護を求め、全国から荘園寄進が集中したが、荘園の増加は律令的封禄制を破綻させ、中下層貴族を経済的困窮に追いやった。摂関体制に疎外された没落貴族たちは、こうした貴族社会の変動を批判的に受け止め、慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記』にみられるように、公の世界での不満を、私の世界、個人的意識の場において解消しようとした。かような個人主義・主観主義的思想の発達が、藤原文化の性格を規定するのであり、国家や氏族の集団意識を喪失し、個人の体験と反省を絶対なものとする精神は、個人の来世における救済を志向する、浄土教の発達を促すとされる。 

しかし、不安定な社会環境におかれた個人の信仰は、必ずしも来世救済の浄土教にのみ向かうのではなく、現世における不安の除去のため、呪術的宗教に向かう場合も多い。そこにおいて、かつて天皇を中核とする律令社会の繁栄を祈念した鎮護国家中心の修法は、貴族の個人的現世利益を祈念する修法へと、次第に変質して行くといえる。 

摂関体制形成期における、いわゆる護国修法は、やはりこの時期に発達してくる陰陽道と同様、かかる災異除去の宗教儀礼に他ならず、外面的には前代の修法同様鎮護国家を称するとはいえ、天皇個人の安泰を通じて摂関体制の擁護を祈念する場合が多い。」 

 

この、最後の部分の、「天皇個人の安泰を通じて摂関体制の擁護を祈念」してゐる場面こそ、『貞信公記』の今日の記録にもうかがはれる、多彩な佛教行事なのではないかと思へるのであります。 

その中に、忠平さんが「寫經」を始めたことが記されてゐました。延長三年十月八日です。「有震事、寫經始、三寺誦經、東花・常行・法性寺東堂等也」。地震があつたその日に始めたといふのが面白いですし、ついでに延暦寺の各寺やお堂で誦經させてゐるんですね。速水先生の記されてゐることを裏付けてゐるやうです。

 

それで、かうしてみると、この時期に、平安文人慶滋保胤の『日本往生極樂記』をはじめとして、『大日本國法華經驗記』などの、たくさんの往生傳が書かれたのが分かります(岩波書店刊『日本思想体系7 往生傳・法華驗記』と『群書類從』正5・續8上、參照)。また、待ちに待つた、あの安倍晴明が活躍する陰陽道の出現もすぐですね。 

 

今日の《平和の俳句》・・「やせ蛙武器は売らねど高楊枝」(四十七歳男) 

〈金子兜太〉この気概を失った企業家や政治家がいるから、すぐ戦争をやりたがるのだ。 

〈いとうせいこう〉うまい本歌取り。この姿勢こそが戦後日本を世界史の中で光らせていた。 

 

今日の寫眞・・今日の參考書