五月廿七日(金)己酉(舊四月廿一日 雨のち曇り

 

今日の日記・・今日は終日、パソコン作業に精を出しました。日光街道と中仙道の寫眞を呼び出して、はじめからすべての寫眞に目を通しながら、山寺さんが寫つてゐるものを選び出しました。それをまとめて、『山寺さんと歩いた中仙道』と題した寫眞集を作製しようと思ひ、ファイルにコピーしたのですが、枚數が半端ではありませんでした。 

どうせならと思ひ、山寺さんとご一緒した旅のすべて、「石橋山古戰場探訪」と「初期中仙道を歩く」と「北國街道を往く」の三回分、それに他の方からいただいた寫眞を合はせると、何と七六四枚にもなりました。もちろん、山寺さんが、少しでも寫つてゐる寫眞のすべてです。ただ正面を向いたのだけでは面白味がありませんので、いろいろな角度や、背後から撮つたものなど、それはそれは多彩な寫眞です。

 

さうです。一昨日の深大寺ウオーキングの時に知つたことですから、早く記しておくべきだつたのですが、なんとなく信じられないまま、他の方にも問ひ合はせたりしてゐたので、今日になりましたが、山寺さんが蜘蛛膜下出血が原因で亡くなられたといふのです。それが、又聞きの又聞きですから、正直なところ、本當なのかさへはつきりしたことは分からないのです。

 

それで、この一月に、山寺さんが入院したことについて奧樣からいただいた電話が生きてゐればと思つておかけしたのですが、留守電になつてゐました。話が聞けるかも知れないと思ひましたが、失禮があつてはいけませんので、もうおかけしないつもりですが、それだけにもやもやが晴れません。 

同僚とも言へる檜垣さんと添乘員の高橋さんにもお聞きしましたが、お二方も初耳だつたやうです。トラベル日本に聞くといふ手もありますが、確實に、敎へてはくれないでせう。といふわけで、ぼくは、寫眞集作製にかかりはじめたんですが、お元氣さうな寫眞ばかりで、ますます亡くなつたといふことが信じられません。

 

「四季は猶定まれるついであり、死期(しご)はついでをまたず。死は前よりしも來らず、かねてうしろにせまれり。人皆死あることを知りて、まつことしかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遙かなれども、磯より鹽のみつるがごとし」(『徒然草』第百五十五段)

 

さういへば、ぼくも、かつて死んだと思はれたことがありました。一九七六年の暮れのこと、淸水市駒越の縣營住宅にゐた時ですが、靜岡中央病院の看護婦さんから電話があり、妻が受話器をとると、恐る恐る、「元氣にしてる?」と聞くのださうです。妻は、そくざに、ぼくにかはるといつたのですが、そのとき、看護婦さんが、「えエ~つ」とびつくりしたさうです。ぼくが生きてゐたからです。 

ぼくはその時、長期にわたつた靜岡中央病院の入院生活から解放され、東京慈恵大學病院での心臟の手術を待つてゐたのでした。それなのに、靜岡中央病院では、ぼくが豫定とは違ふ病院で手術をして失敗し、死んだといふうわさが流れてゐたやうなんです。それで、心配した看護婦さんが、といふのは、看護婦さんと主治醫もぼくの家に遊びにきたくらゐ親しくしてゐたからで、妻とも親しいその看護婦さんが、峰子さんと言ひましたが、電話をくれたんです。 

その後、だれがうわさを流したかが問題になりましたが、それがどうなつたのか、どうも記憶にはありません。山寺さんの死も、その類であつてくれたらと願はずにはをれません。 

 

今日の《平和の俳句》・・「恋しさや仮設の庭に種を蒔く」(七十二歳男) 

 

今日の寫眞・・きょう、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・廣島を訪問したオバマ大統領。今日の新聞切り抜き。それと、山寺さんと最後の旅のお別れの二枚。長岡驛でと、上野驛にて。