六月(水無月)十一日(土)甲子(舊五月七日 晴

 

いやあ、もう、今日は再び京成八幡に行つてきましたよ。永井光永著『父荷風』をほぼ一氣讀みし、せめて永井荷風が亡くなつたその家を見ておきたいと思つたからです。たびたび訪ねてゐる京成八幡驛ですが、まさか、荷風さんの終焉の地が、こんなにもすぐそばであつたなんて思ひもしなかつたからです。 

驛のホームの脇を通る踏切をわたると、なんとそこは〈荷風ノ散歩道〉と名づけられた商店街でありまして、一つ目の角を右に曲がつたそのすぐ奥に、その終焉の地はありました。表札は出てゐませんが、門のわきに、小さな「永井」といふ、ラベルなのか千社札なのかが貼つてありました。もちろん多少は建てかへてありますが、ほぼ「圖面」通りの構へでした。 

地域的な雰圍氣も味はひましたし、あとは、荷風の著作、とくに『斷腸亭日乘』を讀みつつさらに深めていくしかありません。まあ、それで滿足し、つづいて、荷風が「晩年毎日のように召し上がっていた」かつ丼をいただきに、その大黑屋さんを訪ねました。さすがに、〈荷風セット〉といふ名のメニューがありました。が、それには「菊正宗一合」がつくといふので、ぼくはふつうのかつ丼をいただきました。

 

また、近くの新本屋で、妻にたのまれた、例の「日本会議」の本を二册求めました。新本を買ふだなんて、實に珍しいことです。

 

さて、歸宅後、少し休んだのち、隣の從兄の正夫さんとともに、昨日試みに走つた江東區南砂の「平安祭典」まで行き、中山はるさんの通夜に出てまゐりました。 

一〇二歳といふご高齢での死去でありまして、どなたも悲壯感はありません。なごやかにお互ひに親戚であることを確認などして過ごしました。 

はるさんは、ぼくの父とは從兄弟にあたる、銀太郎さんのつれあひです。ぼくにはほとんど記憶がありませんが、何枚かの寫眞にはぼくとともに寫つてゐます。それにしても、その子どもどうしのぼくとナカヤさんが、かうしてお付き合ひしてるなんて、不思議です。「またいとこ」とか「はとこ」といふ關係ですからね。 

運轉は妻がしてくれるので、齋場でぼくはビールをいただくことができましたが、遠い親戚の方々と、行き違ひといふか、ちんぷんかんぷんな話に應じるには、しらふではちよいと辛いものがあります。でも、父の葬式のときに作成した「我が家の系圖」が役に立ちさうなので、明日は持參しようと思ひます。 

 

今日の《平和の俳句》・・「穀雨過ぎババの苗芽(なえめ)に平和来い」(七十歳男) 

〈いとうせいこう〉 ババということは奥さんの植えた苗だろうか。そこに雨が降り、どうか命が順調に力をつけますようにと祈る。それも平和の俳句。 

 

今日の寫眞・・荷風さん終焉の地を訪ねて。それと、菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)と、上杉聰著『日本会議とは何か 「憲法改正」に突き進むカルト集団』(合同出版・合同ブックレット)です。