六月十二日(日)乙丑(舊五月八日・上弦 晴

 

今日の讀書・・今朝は日曜日。忘れないで、といふより今回もちやうど目が覺めたので聞くことができました。NHKラヂオ第2放送の《古典講讀》、「むかし語りへのいざない~宇治拾遺物語~」です。 

朗讀は加賀美幸子アナウンサー、解説は伊東玉美さんで、今朝は、卷第二の一四話と卷第三の一、二、三話でした。聞くのは四週間ぶりですが、内容はともかくとしても、話の解説の伊東玉美さんの男心を誘ふやうな話し方がぼくにはこたへれらません。實にいい。 

第二話の、「藤大納言忠家もの言ふ女、放屁の事」なんて、「美々しき色好みなりける女房」が忠家にきつく抱かれたと思つたら、大きなおならをしてしまふ話です。が、それを玉美先生、さらりと語られるのには、まゐりました。 

それで、前回同樣、聞き惚れながら、終りまで聞くことができました。

 

それはともかく、九時に家を出て、正夫さんと二人で中山はるさんの葬儀場である、平安祭典にまゐりました。今日はぼくの運轉でした。が、一昨日、昨日と走つた同じ道路なのに、今朝はスムースで、三〇分ほどで着いてしまひました。日曜日なので車が極端に少なかつたからです。 

葬儀は滞りなく進み、終りました。ただ、火葬場が五反田の先の「桐ヶ谷齋場」といふところで、それでも高速道路がすいてゐたので、時間通りに行つて歸つてこれたやうです。

 

今日、ぼくは、ぼくの遠い昔のことを知りました。亡くなられたはるさんの娘さんで、ぼくが一番よく遊んだ博さんのお姉さんのつや子さんから、ぼくが自轉車でナカヤさんまで遊びに行つてゐたらしいのです。まだ、小學三、四年生のころのはづです。きつと荒川の土手を走つたのではないかと思ひますが、それも何度も何度も。もう暗いから歸りなと言はれるぐらゐ長居してゐたのださうです。 

また、その博さんは、ぼくの記憶の中では、「ひろちやん」と呼んでゐる、ぼくと同い年の遊び相手だつたんですけれど、實は先日亡くなられたといふことをお聞きしてびつくりしたのでした。もう、失念もいいところ。お聞きして、それで、ひろちやんがゐたことを思ひ出したくらゐなのでした。 

今日ご家族にお會ひして、ぼくは、生前に會ひたかつたことを傳へました。だつて、顔さへおぼろげどころかまつたく覺えてゐないのですから。五十年以上會はなかつたとはいへ、ほんとうにすまない、といふか殘念な氣持ちでいつぱいです。

 

歸りは、永谷さんとその次男の文洋さんを船堀驛までお送りしてから歸宅しました。永谷さんは、ぼくの祖母つるの妹の孫にあたる豐さんのつれあひですが、我が家にも來られたことがありますし、父や叔母の葬式にも出てくださつた方です。もう血のつながりとしてはずいぶんと遠く薄いはづなのですが、行き來があつたからでもありますが、よくもまあおつき合ひしてくださつたものだと思ひます。 

それに、文洋さんは、聞くに、ぼくの父にはよく遊んでもらつたやうなのであります。ハンケチでネズミを作つてもらつたりとか。その彼が、なんと靑學の卒業生で、専攻は江戸文學だつたといふのですから、ぼくの相談相手になつていただけるのではないかと期待してしまひました。實に奇遇です。いきなり、後輩ムードになられたので、なんだかぼくまで先輩ムードになつてしまつて、別れるのがつらく感じたほどでした。 

 

今日の《平和の俳句》・・「さみしくてたまらなくって墨をする」(四十二歳女) 

〈中江有里〉 香典袋に名を書くために墨をすりながら、亡き人のことを思い返しているのでしょうか。一緒にいた幸福な時間をかみしめながら。 

 

今日の寫眞・・葬儀の模様と、今日の新聞切り抜き。菅井益郎さんの「避難者は被害者である」はまことに正論。谷中村廢村のことを忘れてしまつてはいけませんのです!