六月十七日(金)庚午(舊五月十三 晴、蒸し暑い

 

今日の讀書・・菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書 二〇一六年五月一日初版發行)を讀んで、日本会議は、なんと「恐ろしい!」のだらうかなんて言ひましたが、でもほんとうは恐くないのです。むしろ、のほほんの民主主義にどつぷり漬かつて、そのありがたさを眞劍に受けとめてこなかつたのほのんの人々に責任があるといふか、しつぺがへしを受けてゐるのだらうと思ひます。昨日は書けませんでしたが、その「むすびにかえて」の中から、どきりとする文を寫して、この本のことはお仕舞ひにします。

 

「しかしながら、その規模と影響力を維持してきた人々の長年の熱意は、特筆に値するだろう。::(略)・・しかし彼らの手法は間違いなく、民主的だ。 

私には、日本の現状は、民主主義にしっぺ返しを食らわされているように見える。

やったって意味がない、そんなのは子供のやることだ、学生じゃあるまいし・・・と、日本の社会が寄ってたかってさんざんバカにし、嘲笑し、足蹴にしてきた、デモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった「民主的な市民活動」をやり続けていたのは、極めて非民主的な思想を持つ人々だったのだ。 

そして大方の「民主的な市民活動」に対する認識に反し、その運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力となった。このままいけば、「民主的な市民活動」は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉。これでは悲喜劇ではないか!」

 

ですから、恐ろしいのは、「日本会議」ではなく、のほほんの民主主義にどつぷりと漬かり、いや、漬かりすぎて、我が國の將來を、政治家にまかせきりにしてゐたぼくたちののほほんぶりでせう。それはもとより、政治家が、「党是」に縛られて、一人の政治家らしく行動してゐないことです。「日本会議」に言ひなりの安倍の言ひなりになつてゐる國會議員を見てゐてさう思ひました。 

 

書齋の隣の部屋との間の貫通工事が完成し、今日は、まづパソコン机を移動しました。本は徐々にですね。久しぶりの畳敷きの和室なので、とても落ち着きます。これで、頭の回轉もよくなつてくれるといいのですが。 

 

今日の《平和の俳句》・・「九条を戦没学徒の声に聞く」(五十六男) 

〈金子兜太〉 作者のコメントが響く。長野県上田市の「無言館」で戦没学生の絵画に出会って、戦争の理不尽、残酷を痛感したのだ 

 

今日の寫眞・・東京新聞朝刊の切り抜き二枚。「日本会議」の津波のやうな攻勢に對しては、文字通り蟷螂の斧でせうが、ぼく自身の考へ方は絶えず確認して歩んでいきたい。そのために、同感した人々の意見や記事の切り抜きです。 

擴張した書齋。 

それと、今日のモモタ。まあ、可愛いですよ。でも、トイレには手こずらされるモモタです。ぼくたちのトイレに敷いたシートの上にしてくれるのはいいのですが、便器の裏側の最も掃除しにくいところにするのです。それもシートをくしやくしやにして、ウンチはべつとり。それで、大きな段ボールで、裏側に入れないやうに隔壁を作りました。ぼくの畢生の傑作と言へるでせう!