六月廿日(月)甲子(舊五月七日 晴

 

今日は、砂町のナカヤさんまで出かけてまゐりました。先日の葬式の際、菩提寺から「過去帳」が見つかつたので見に來てほしいと言はれてゐたからですが、こんなに早く呼び出されるとは思つてもみませんでした。でも、すでに慣れた道ですし、一〇時に家を出て、約束の一一時の一五分前には到着しました。 

早速見せていただきました。「過去帳」といへば古文書ですから、讀めなかつたらどうしやうかと心配してゐたのですが、分かりやすい文字にしてあつたので内心ほつといたしました。

 

さて、内容は、現在のナカヤさんのお父さんである銀太郎さんの先祖の系圖でした。寶歴十二年(一七六二年)に亡くなられた初代からはじまつて、八代目の銀太郎まで記されてゐました。氣づいたことは、初代から「中屋」を名のつてゐたことと(たぶん屋號として)、二代目から五代目までは代々「中屋伊兵衛」を名のつてゐたことです。 

そして、七代目の中屋甚太郎が、ぼくの祖父文四郎のつれあひである「つる」の妹「よし」をめとつたといふつながりが判明いたしました。この甚太郎さん、左官職人でありまして、しかもそのお二人の寫眞が殘されてあつたのです。昭和十一年に五十四歳で亡くなつてゐるのですが、その寫眞からうかがふと、どう見ても七十過ぎ、いや八十歳と言つてもいいやうなお姿なのでありますね。

 

それと、驚いたのは、銀太郎さんが出征するときに、親戚や知人が寄せ書きした日の丸の旗が、つい先日發見されたといふのです。それを見せてもらひました。な、なんと、父のサイン、さらに、祖父のサインも記されてゐたのであります。先日お會ひした文洋君の祖父永谷金五郎さんと馬橋次郎吉おぢさんの名も見えます。 

ただ惜しむらくは、記された年月日がはつきりしないことです。銀ちやんの履歴でもわかれば判明するかも知れません。また、よせばいいのに、父は名前の上に、「誠心」なんて、いかにもの文字を書いてゐます。父もたぶんこの前後に出征したはづですから、送り出すにも氣合ひが入つてゐたのでせう。ちよつと複雑な氣持ちです。

といふことで、サインを見ながら、我が「系圖」の穴埋めといふか訂正も行ふことができました。これは大収穫だつたのではないでせうか。

 

歸り際に、もう一つの記念の品物を見せていただきました。ナカヤさんご夫婦の結婚式のときのアルバムです。そのなかに、ぼくが子どもの頃よく訪ねて遊んだひろちやんの寫眞もあつたのです。かすかに、さうだつたかなあといふ程度の記憶しかありませんが、ほぼ六十年ぶりの再會です。そして、このアルバムの寫眞はすべて父が撮つたといふことも敎へていただき、なんともぼくにとつての思ひ出の品でもあつたのであります。 

歸りは、荒川の右岸をさかのぼり、木根川橋を渡つてもどつたところ、二五分で到着しました。 

 

今日の《平和の俳句》・・「若冲に二千の行列春うらら」(七十四歳男) 

〈金子兜太〉 江戸の画家若冲。装飾画のような鶏などの絵に二千の行列とは平和だなあ。 

〈中江有里〉 行列に戦(おのの)いて結局行けませんでした。これぞザ・平和の光景です。 

 

今日の寫眞・・ナカヤさんの居間にて。左官職人であつた中屋甚太郎よし夫婦。日章旗と祖父や父などのサイン。最後は思ひ出のアルバムです。デジカメで複寫するために借用してきました。