七月四日(月)丁亥(舊六月朔日・朔 晴、夕方雷雨

 

今日の讀書・・朝食後、本の整理のために書庫に入つたところ、たまたま目にとまつたのが、上野洋三著『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』(臨川書店)でした。昨年の五月に古本屋で買ひ求めたあと、お藏入りのやうな状態でありました。お藏入りと言つても、時々は藏書の全體に目を通して、何があるかを確認しておくことはしてゐるので、氣にはなつてゐたのです。

 

『古今和歌集』は繼讀中ですし、先日は歌物語の『大和物語』を讀み終へ、また、富士正晴著『パロディの精神』に誘發された『仁勢物語』を、途中までですけれど、讀んでゐますし、さらに『内裏歌合』にまで手を出してゐるので、それで心のに響くものがあつたのでせう。 

『仁勢物語』は『伊勢物語』のパロディで、それを書いたとされてゐるのが、烏丸光廣といふ、細川幽齋から(一六〇三年に)「古今傳授」(歌道の祕傳)を授かつた若い公卿です。どうして彼がパロディ精神をもつて『仁勢物語』を書くやうになつたかは、富士さんの著書におまかせするとして、その時の記録が、『耳底記』なのでありました(六月十三日の「日記」參照)。

 

ところで、烏丸光廣より少し前の一六〇一年に、やはり細川幽齋から古今傳授を受けた人に、智仁親王がをります。 

「近世和歌史は、細川幽齋からはじまるとされ、それ以前の中世の学問を、ほぼ大成したかたちで、あるいは集成したかたちで、身につけていた」人物であります。その幽齋が、「宮中の八条宮智仁親王という方に対して古今伝授をしている。つまり古今集に関する最も重要な学問を伝えて宮中に入れたわけであります」。 

このやうな智仁親王が、何を隠さう、後に後水尾天皇に古今傳授を授けた人物だつたのであります。

 

ぼくは、このへんの歴史に疎いので、初見といふか、はじめて知ることばかりなのですが、後水尾天皇といふお方は、「室町時代末期の混乱を経て、ほぼ瀕死の状態にあった和歌に対し、・・生命を吹き込」んだ方だつたのであります。 

上野洋三さんは、かう記してゐます。「和歌史をこんにちにおいて叙述可能にしている文献のほとんどは、江戸時代に写され、印刷され、保存されたものであるということと、また江戸時代の人々が残した和歌そのものの作品の厖大なこと」、その熱意の基をなしたのが、後水尾天皇(院)であることを、認識させられました。

 

それで、今朝手にした、『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』の 『萬治御點』 とは何かといふと、「連続した歌の勉強会」の記録なのでした。所藏してゐる圖書館によつては、「後水尾院御添削集」といふ書名がつけられてゐるやうに、「『万治御点』という書物は、詠歌と添削と批評とか、日付入りで記録される希有の材料です」、といふことです。何やら、『耳底記』と同じ感じがいたしますが、この方がより具體的なお勉強會の記録と言へるでせう。

 

それで、すぐに、〈宮内庁書陵部 畫像一覽〉を探し、プリントアウトしたことは言ふまでもありません。ただ量が多いので、三册のうち、上卷だけにしておきました。はたして、『近世宮廷の和歌訓練』の第一講・第三節「五十首和歌の批言を読む」からは、原文にあたりながら讀み進むことができました。 

作者が提出した歌について、後水尾院が一つ一つ添削していく樣子が記されてゐます。これは、和歌を學ぶにはたいへん役立つのではないかと思ひましたが、なにせ感性のないぼくには高嶺の花。そうかそうかと讀むしか能がありませんでした。 

 

今日の《平和の俳句》・・「平和ってつまりは君たちの笑顔」(六十歳女) 

〈金子兜太〉 簡単明瞭な口語書きの俳句とはこれ。だから率直平明に伝わる。いつも笑顔。 

〈いとうせいこう〉 難しいことではない。今のあなたの笑顔そのものを私たちは守りたい。 

 

今日の寫眞(前頁二枚)・・上野洋三著『近世宮廷の和歌訓練 「万治御点」を読む』(臨川書店)とプリントアウトした『萬治御點』。その表紙と第一頁。 

オトちやん、妻のベッド之下に引きこもり。と思つたら、モモタがそばに近づき、どうやら慰めてゐるといふか、落ち着かせてゐる樣子。それをながめながら、妻とにんまりしたものでしたが、早計でした。後刻、ふと見ると、モモタがオトのご飯を横取りするやら、トイレの上でオトにのしかかつたりして、いじめてゐるではありませんか。 

妻が怒つたのなんの。「あんただつてノラだつたでせう。それを助けられて、同じ境遇のオトに何をするの。なかよくしなければ、あんたを追ひ出すよ!」、と、まあ、聞いてゐるのがつらかつたです。モモタ、妻が向つてきたとたんに、齒をむき出しましたもんね。 

こんどは、モモタが、ベッドの下にもぐりこんだまま。殘されたココが、ひとり寂しさうでした。