七月十四日(木)丁酉(舊六月十一日 曇天のち晴、夕方激しい雷雨

 

今日もまた慈恵大學病院のアブレーション外來で診察を受けて來ました。が、診察といふより、入院・手術の日取りをうかがひに行つたやうなもので、ぐつと現實味をおびてきました。『CRT・Dって、何ですか?』なんていふ説明書をいただき、入院の手續きをして歸つてきまして、もうあとには下がれなくなりました。 

 

今日の讀書・・中村眞一郎著『王朝文学論』(新潮文庫)を讀み終へました。ぼくは、平安時代から鎌倉・室町時代の歴史を多少は學んできました。また、文學についても、關心のある時代ですから、斷片的にせよ知識として知つてゐたはづなんですが、この書はまるで驚きの連續でした。歴史と文學が切り離すことなく、いはば、くんずほぐれずの關係が克明に記されてゐて、頁をめくるごとに、「さうなんだあ」と、叫ばずにはゐられないくらゐでした。 

 

今日の《平和の俳句》・・「虹の輪に争へる者つなぎたし」(六十九歳男) 

〈いとうせいこう〉 大きな景色を持つ句。ばかばかしい争いをやめ、天にぶら下がる者たち。 

〈金子兜太〉 天空の美しいものにつないだら少しは鎮まるか。この戦争野郎め。平和破りめ。 

 

今日の寫眞・・中村眞一郎著『王朝文学論』の中の「系圖」。 

〈イ〉 は、『蜻蛉日記』の著者、道綱の母と呼ばれる藤原兼家の妻です。ご存じ、兼家は道綱はもちろん道隆、道長たちの父親です。 

〈ロ〉 は、『枕草子』の著者、淸少納言です。 

〈ハ〉   は、『源氏物語』の著者、紫式部です。淸少納言のライバルであり、道長の愛人とも言はれてゐます。 

〈ニ〉   は、それでは誰でせう? 孝標の女(むすめ)と呼ばれてゐる、『更級日記』の著者ですね。それと、『夜の寢覺』と『濱松中納言物語』の著者でもあるのです。これは、中村眞一郎さんの指摘によつてはじめて知りました(文學年表を見たら、?マーク付きで、たしかにさう書かれてありましたが、どうしてそう言はれるといふか、さうなのかは、本書のやうな説得力ある説明によつて心に刻まれるのでありますね)。 

このやうな錚々たる「女房」たちが、それぞれ遠いとはいへ、親戚同士だあることにも驚きです!