七月廿二日(金)乙巳(舊六月十九日・大暑 曇天時々小雨、肌寒い

 

たうとう禁斷症状がではじめたので、出かけてきました。うなぎと古本です。 

まあ、入院が決まつたりして、ちよいと落ち込んでゐたのですが、いやはや欲望といふか、生存本能はまだ衰へてゐないやうでありまして、古本屋にはちやうどひと月、うなぎはもうちよつとご無沙汰してゐたでせうか。でも、その兩方を一緒に滿たすには土浦か神保町しかありませんので、今日は近場の神田の古書會館とその裏通りにある「うなぎのかねいち」さんを訪ねました。

 

古本の方はいつものお勉強のためですが、體調不良のためでせうか、「こころ踊る掘り出しもの!」をといふポスターの呼びかけに反して、あまりこころ踊りませんでした。踊つたのは、『蓮如上人いろはうた』の古びた和綴じ本と、草野心平編『髙村光太郎詩集』(鎌倉書房)を見つけた時だけでした。 

今さら髙村光太郎でもないかも知れませんが、ぼくの大好きな詩を、伊豆の工房の壁に貼つておいたのですが、それが東京に歸つてくるとき紛失し、それ以來どこをさがしてもなかつたのでしたが、それが見つかつたのであります。〈刃物を研ぐ人〉といふ題の詩です。 

光太郎は、元來、偉大な彫刻家髙村光雲の息子でありまして、すぐれた彫刻家なんです。かつて行はれた、千葉美術館での《彫刻家髙村光太郎展》を見に行きましたし(『歴史紀行十七』參照)、ぼくもまねて鯰などを彫つたこともあつたのですが、その原點となつたのが、次の詩、〈刃物を研ぐ人〉です。 

 

黙つて刃物を研いでゐる。 

もう日が傾くのにまだ研いでゐる。 

裏刃とおもてをぴったり押して 

研水をかへては又研いでゐる。 

何をいつたい作るつもりか、 

そんなことさへ知らないやうに 

一瞬に氣を眉間にあつめて 

靑葉のかげで刃物を研ぐ人。 

この人の袖は次第にやぶれ、 

この人の口ひげは白くなる。 

憤りか必至か無心か、 

この人はただ途方もなく 

無限級數を追つてゐるのか。 

 

「かねいち」さんのうなぎは、甘からず薄からず、ちやうどいい味なんです。土浦のうなぎも捨てたものぢやありませんけれど、今日は大滿足で歸路につきました。 

 

今日の讀書・・今朝、昨夜讀み殘こしてゐた二頁を讀みきつて、『多武峰少將物語』、全二十五丁(五十頁)を讀み終へることができました。くづし字がやさしいのか、ぼくの讀解力が上がつたのかわかりませんが、數日で讀み終へたことは、今後の自信につながります。 

ところで、内容は、妹に戀した藤原高光少將が、その戀心を抑へて出家するといふ話です。高光は、『貞信公記』忠平の孫であり、『九暦』師輔の八男にあたる、實在の人物です。 

『篁物語』の小野篁が、妹を「妊娠させるに至」つたのとは對照的に、高光は逃げて、身をなき者にして出家します。だから、純粋な「宗教的回心」が主題といふよりは、内容の大半が、その出家に驚き嘆く周圍の人々の動搖の樣の叙述です。「(應和元年・九六一年)権力の中枢にあった藤原師輔のこの御曹司の、妻子兄弟姉妹をすててのほとんど発作的とも見えた出家は、当時の貴族社会に衝動を与えた」といふものです。 

でも、この物語は、「『伊勢物語』と『源氏物語』をつなぐ作品として文学史上注目される」作品で、たしかに、『伊勢物語』や『大和物語』と同樣に、たくさんの歌がやりとりされてゐます。當時の貴族社會において如何に和歌の素養が大事であるかがわかります。いや、大事といふよりは、和歌には、言葉の表面的な意味では言ひ盡くせない内なる氣持ちや思ひを讀む者に傳へる力があるんです。言靈(ことだま)なんていふ言葉を聞いたことがありますが、まさに、言靈が宿る言葉、それが和歌なんですね。

 

今日の《平和の俳句》・・「いつの世も母に平和の匂いかな」(六十六歳女) 

 

今日の寫眞・・心から同感した今日の新聞切り抜き。久しぶりの、東京古書會館。それと、「うなぎのかねいち」さん。