八月九日(火)癸亥(舊七月七日)・長崎原爆記念日 晴、暑い

 

朝、自分のベッドで氣持ちよく起床。でも、ペースメーカーの回りの筋肉が痛み、ちよいと不安になりました。けれども、からだが動き出すと、そんな不快感も消えて、モモタとココに食事を與へました。モモタも機嫌をなほしてくれたやうです。 

朝食後は、齒科の豫約日。まだ治りきれてゐない齒ぐきを診てくれました。 

晝食後、七月二十九日から八月八日までの「東京新聞」をテーブルにならべて、順番にすべてのページを開いてながめました。讀むべき記事に會はなかつたので、たしかに、ながめたとしか言へません。 

 

今日は、妻の提案で、龜山動物病院の醫師に往診に來ていただきました。昨日の轍を踏まないやうに、モモタを興奮させないやうに治療していただきたいと思つてお願ひしたのです。つまり、ハゲができたモモタを診てもらひ、注射を打つていただいたのですが、それがまた上手で、近寄つたかと思ふ間もなく済ませてしまひました! ぼくの氣持ちからしたら神業でした! 

捕獲に失敗し、牙を向けられてむしやくしやしてゐたので、醫者のすばやさには驚嘆! 往診料金をケチらず、もう感謝感激でした。 

 

所で、今日は終日、入院中の原稿をもとに、「ひげ日記」を書きはじめ、寫眞の整理も併行して進めました。ところが、おや、と思ふ事が出て來て、妻に、手術の日と次の日について、何があつたか、改めて聞き出しました。すると、ぼくの朦朧とした記憶とはだいぶ食ひ違つてゐたので、妻の言つたことを箇條書きにしてみました。 

妻から聞き出したこと─

 

七月卅日土曜日、手術の日、妻は十時ころにきてくれて、ぼくは十一時に手術室に向かひ、三時半に病室に戻つてきたこと。 

そのとき、いびきをかいて寢てゐるぼくを見ながら、醫師は、妻に、ぼくが手術中にあまり痛がるので、麻酔を(餘分に)打ちました。それが今になつても効いてゐますね、と言つたこと。しかし、そのとき、どこを痛がつたかは言はなかつた。意識のないぼくは、痛がつたことさへ記憶がありません。 

四時ころになつて、一旦家に歸つた妻は、再び夕方七時には病室に來て、そのときには目はあいてはゐましたが、朦朧としてゐるぼくに、アイスクリームと夕食の「うなぎ」を食べさせてくれました。この記憶はかすかながらあります。八時に歸つていく。 

卅一日日曜日にも、妻は二回見舞つてくれました。一回目は、午前十時頃に來て、お晝を食べさせてくれてから歸つていきました。 

二度目は、六時にきてくれて八時に歸るまでゐてくれました。ぼくが、「夕べはつらかつた」とか、「さつき、尿道に入れておいた管を抜いてくれたんだよ」とか言つたやうです。そして、ふらつくぼくを支へて、トイレに付き添つてくれました。 

ここからはぼくの記憶になるのですが、その頃になつて突然、左手親指の付け根が痛くなつたのです。それは觸れなくても、ただただ痛くて、當直醫とさらに整形外科の醫師にも來ていただきましたが、原因がわかりません。その時は、ですから痛み止めの藥をいただいて、それでどうにか眠ることができました。 

この痛みは、今から思へば、手術中に何らかの仕方で左手親指を痛めてゐて、手術で用ゐた麻酔がきれたことによつて感じだしたのではないでせうか。手術中にぼくが痛がつたのは、左手親指が傷ついてゐたからだと言はざるを得ません。

 

以上、經過だけを記しておきます。 

 

今日の寫眞・・モモタに氣遣ふココ。七月二十九日から八月八日までの「東京新聞」。