十月十一日(火)丙寅(舊九月十一日 曇天

 

今日の讀書・・思ひ立つたが吉日で、早速、『史料綜覽』 と 『日本紀略』 を讀もうと思ひましたが、先日求めた文庫本が目にとまつたので、讀んでしまひました。葉室 麟著 『川あかり』 (双葉文庫)といふ時代小説で、「藩で一番の臆病者と言われる男が、刺客となった!」といふ内容です。 

前に讀んだ 『銀漢の』 と 『命なりけり』 と 『蜩ノ記』 につづく四册目でしたが、どれも、ちよいと必然性に缺ける内容といふか、筋書きで、「何度、泣いたことか」と、解説者が書いてゐるほどには、感動しませんでした。すみません。 

 

それで、『史料綜覽』 と 『日本紀略』 ですが、朱雀天皇の時代から讀みはじめました。 

『史料綜覽』(漢字片假名混り文) では、延長八年(九三〇年)九月廿二日の、(朱雀天皇)「受禪アラセラル」にはじまります。 

『日本紀略』(漢文) の同日の記録は、「先帝逃位。譲皇太子(年八)。左大臣藤原(忠平)朝臣攝政。」と記されてゐて、まだ、醍醐天皇存命のうちに譲位したことが分かります。 

そもそも、醍醐天皇は、菅原道眞の怨靈による、いはば狂ひ死にでしたから、死ぬ前に譲位してしまつたのでせう。朱雀はまだ八歳です。實際に「崩御」したのは、七日後の廿九日でした。 

このときから、藤原忠平が攝政となり、幼い天皇を錦の御旗にして、政治を思ふままにしていくわけであります。「先帝(醍醐)」は亡くなり、醍醐の父の「(宇多)法皇」は、出家して法皇となつてゐて、政治からは遠ざかつてゐました。 

たしかに、次の年、承平元年(九三一年)七月十九日に、「法皇崩御アラセラル」とあります。が、その前後を讀むと、「變異ニ依リテ奉幣アリ」とか、「天變」とか、「虹見ル」とか、「弘徽殿ニ怪アリ」とか、「牛ノ怪ニ依リテ、御占ヲ行フ」とかがありまして、その死の意味を何か暗示してゐるのではないかと思はせられますです。はい。 

 

さて、さらに讀んでゐて氣がついたのは、齋宮(伊勢齋王)と齋院(賀茂齋王)の存在です(以下の説明參照)。 

醍醐天皇崩御とともに、「伊勢齋宮柔子内親王御退出」、「賀茂齋院韶子内親王御退出」とあつて、それぞれその任務が終了したことが記されてゐます。が、ちよいと虎の卷を開きましたら、第十三代齋院の韶子さんのはうは在任九年八ケ月、ところが、第二十五代齋宮の柔子さんは、なんと三十四年間だつたのです。齋宮六十四代中、最長なんですね! 

さらに、承平元年(九三一年)十二月廿五日には、次の齋宮と齋院が選ばれてゐます。齋宮には、雅子内親王が、そして、齋院には、婉子内親王が選ばれてゐます。雅子さんは在任が五年で、初めの二年は「野宮」で潔齋の生活で、伊勢へは三年の任期でした。しかし、齋院の婉子さんは、在任期間三十五年六ケ月です。これは、全齋宮・齋院の中で最長です。お二人とも、醍醐天皇の娘たちですが、なんともお勞しいことです。 

ちなみに、ぼくは、六年前に伊勢神宮を訪ねた際、ついでに「齋宮」を訪ねてはじめてその存在と生活とその任務について知りました(『歴史紀行四 伊勢神宮・平城京編二』參照)。 

 

以下、事柄の説明・・ 

齋宮・・天皇の名代として伊勢神宮に遣わされた皇女。また、その居所。天皇が即位すると未婚の内親王または女王から選ばれ、原則として譲位まで仕へた。一四世紀の後醍醐天皇の代まで續いた。齋王。いつきのみや。 

齋院・・賀茂神社に奉仕する未婚の皇女もしくは王女。齋王、賀茂齋院ともいふ。伊勢神宮の齋宮にならつて設置された。平安時代の嵯峨天皇皇女、有智子内親王に始まり、鎌倉初期の後鳥羽天皇皇女の禮子内親王に至り、その後は廢絶した。 

野宮・・伊勢の齋宮の場合は、卜定によつて齋王とされた時、宮城内の初齋院で潔齋した後、さらに、伊勢に移るまでの一年間、潔齋のためにこもつた宮殿。京都嵯峨野に設けられた。 

賀茂の齋院の場合は、宮城内の初齋院で三年潔齋した後、神社に參る前に移る宮殿。京都紫野に設けられた(といふことは、賀茂神社に移るまでのほんのひとときの滯在だつたのでせうね?)。 

それぞれ、黑木の鳥居を設け、柴垣をめぐらし、質素に作られた。ただ、代々場所も建物も作りかへられたやうです。 

 

今日の寫眞・・二〇一〇年十二月に訪ねた伊勢の齋宮跡と、二〇一一年五月に訪ねた京都嵐山の野宮神社。