十月十七日(月)壬申(舊九月十七日 雨

 

そろそろ紅葉の季節です。史策會として、この三月卅一日におこなつた國分寺から調布(京王線國領驛)までの野川下り、そのつづきとして、二子玉川までの散策が豫定されてゐました。が、都合により、來春、再び櫻の咲く頃に延期しようといふことになりました。 

それで、ぼくは、別の案として、紅葉の野山を歩きたいと申し上げたところ、川野さんから、すでに計畫されてゐたやうなのですが、尾瀬に行くので、「ご都合よろしければご一緒しましょう。」と誘つてくださつたのであります。 

それで行く氣になつたのですが、實は、ぼくはまだ一度も尾瀬を訪ねたことはないのでありまして、やはり、今のうちに行つておかないと行かずじまいになつてしまふなと感じたからであります。 

しかし、それは三日後の廿日(木)です。ちよつと急、といふか突然ですので、明日、循環器内科の通院があるので、そこで女醫先生にお話しして、そのあとで參加するかどうか決定しようと思ひます。 

 

今日の讀書・・今日も、『史料綜覽』 と 『日本紀略』 を讀みつづけました。また、折角ですから、『大日本史料 第一篇之九 村上天皇 自天慶元年六月 至同七年七月』 を、應接間の書棚から出してきて、まあ深くは讀めませんが、ちらちらと參照しながら讀み進むことができました。 

一昨日、『大日本史料』 がいかに厖大な史料集であるかを書きましたが、その證據を擧げておきます。今日の寫眞の三册について、左から、『日本紀略 第三(後篇)』 は、八九七年から一〇三六年までの一三九年間にわたる記録です。また、眞ん中の 『史料綜覽』 は、八八七年から一〇二四年まで一三七年間にわたる記録です。ところが、右の、『大日本史料』 は、九四七年から九五三年までのたつた六年間で、この厚さです。 

 

今日の寫眞・・一枚目の右から、『大日本史料』 と 『史料綜覽』 と 『日本紀略』 です。二枚目は、『大日本史料』 の中の、紀貫之が亡くなつた記録の一部です。紀貫之については、一〇二頁にわたつて、二三六の項目の史料(の本文)が引用されてゐます。また、特別に、「寸松庵色紙 傳紀貫之筆」の寫しまでも掲載されてゐます。ちなみに、「おく山にもみちふみわけなくしかのこゑきくときそあきはかなしき」と讀みます。