十月廿三日(日)戊寅(舊九月廿三日・下弦 曇り、時々日光。

 

〈尾瀨トンデモ紀行(四)〉 尾瀨沼

 

尾瀨沼が見えたときは、うれしいとともに、心からほつとしました。一應、目的の地に到着することができたからです。湖畔に(ではない沼畔に)着くと、尾瀨沼山莊も閉鎖されてゐました。どころか、あたりにはもちろん、岸邊にもだれ一人見受けられません。 

木のベンチにすわり、さつそくお辨當のおにぎりを出して頬ばりました。うまかつたです。でも、一つにしておきました。この疲れでは、消化もよくないと思つたからです。 

沼の水を渡つてくる風が冷たくて、それがまた心地よく感じました。向かひには、この沼と濕原を作つた燧ケ嶽が靑空のなかに聳えてゐます。波が立つてゐなければ、その姿は沼の表面に寫つてゐたであらうことを思ひ、ちよつと殘念な氣がしました。

 

さう、着いた時間は午後二時五分。大淸水を發つてから三時間と四〇分かかつて、六・三キロを、一〇九八〇歩で歩いてきたのでした。そこで、あまりにも疲れが激しいので、川野さんが、歸りも同じ道を戻ろうかと提案してくれたのですが、ぼくは、今までも、どんなところでも同じ道を通つて歸るのは嫌なので、はじめの計畫通り、沼畔と濕原を歩いて、沼山峠を越え、會津側へ抜けようと言ひました。ただ、その沼山峠まではまた登りですから、多少は迷つたのでありました。

 

ところで、野岩鐵道の會津高原尾瀨口驛までのバスが出る、沼山峠休憩所は、峠からまた下らなければなりません。最終バスは四時二〇分發です。それを確認すらや否や、川野さんは、では出發しませうと荷をかたづけはじめました。二時間はあるけれど、はたして間に合ふかどうか、やはり心配でした。 

二時一五分出發。といふことは、一〇分の食事時間しかなかつたわけですが、景色は歩きながら見ればいいので、すぐに歩きはじめました。

 

左手に沼と燧ケ嶽をながめながら、約三〇分ほどで、尾瀨沼ビジターセンターに着き、トイレ休憩。そこには、ヒュッテとでも言ふのでせうか、大きな宿泊施設が何棟か建つてゐましたが、土地の造成なのでせうか、重機が入つたりして、沼畔の靜かなところのはづなのに、重低音が腹にこたへました。 

さあ、そこからが最後の難關でした。大江濕原のはじまりです。 

 

今日の讀書・・黒川博行著 『てとろどときしん 大阪府警・捜査一課事件報告書』(講談社文庫) を讀了。つづいて、『疫病神』(新潮文庫) に入りました。この二册、各一〇〇圓でした。圖書館のは汚れた感じで、やはりぼくは古本が好きです。 

繁田信一著 『殴り合う貴族たち』(角川ソフィア文庫) が、ぼくの勉強にはあまりのも有益さうなので、同じ著者の本を探したら、あと四册ありました。表題と目次を見て買ひ込んでゐたものです。が、ネットのアマゾンを見たらまだ他にも出版されてゐたので、注文してしまひました。 

どこが有益かといふと、みな、當時の「日記」(小右記、御堂關白記等)を讀み解くといふ仕方での叙述ですから、その原文を開いて同時に讀んでいけば、重層的な學びが深まるに違ひありません。 

 

今日の寫眞・・〈尾瀨トンデモ紀行(四)〉 閉鎖された尾瀨沼山莊。木製ベンチにて。尾瀨沼と燧ケ嶽。現地の地圖。再度、燧ケ嶽。そして、濕原入口。