十一月二日(水)戊子(舊十月三日 曇天

 

今日の讀書・・今日は、やみつきになつた黒川さんの、『暗礁 下』(幻冬舎文庫) が讀み終はつたので、ちよいと一休みして、わが讀書計畫の大黒柱なる 『日本紀略』 を讀み進みました。さうしたら、例の、『貞信公記』 の著者、藤原忠平が亡くなつたところでした。 

村上天皇の天暦三年(九四九年)八月。 

 

「十四日乙酉、太政大臣藤原朝臣忠平薨小一條第。年七十。病間公家賜度者卅人。又大赦天下」 

 

長いこと病の床にあつた忠平ですが、「小一條第」で亡くなつたとあります。年は七十歳。それまで、たびたび大臣の職を辭すことを願ひ出ましたが許されず、太政大臣のままの死去でした。 

病の床にあつたときには、朝廷として、或いは天皇が、彼の病が癒えるやうにと、三十人の僧侶をたてて回復の祈りをささげさせましたが、その甲斐なく薨じたのでした。 

また、大赦を行つて、罪人を赦すことで、病が癒えるようにと願つたことが分かります。神佛への祈りを獻げるとともに、罪人とした者たちの怒りや怨念を避けようとしたのでありませう。 

權力者は、神佛からも、庶民からも怨まれたくないのでありますね。しかし、これほど贅澤な、いや不可能なことがありませうか! だつたら、簡単。平生から庶民の幸福を第一にした政治を行へばいいだけのことなのであります。

 

ちなみに、「小一條第」とは、平安初期から後期まで続いた名邸であります。場所は、勘解由小路の北、東洞院大路の西、烏丸小路の東、近衛大路の南に位置し、もともとは藤原良房の邸宅で、ここで清和天皇が誕生したといはれてゐます。それが、のちに忠平邸となつたのでありました。 

もう一つ。忠平の歌は、『小倉百人一首』にもとられてゐるんですね。「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」 です。 

 

今日の寫眞・・今日、靑木乃里子さんから屆いた「大日如來」。妻がお願ひして描いていただいた繪です。