十一月八日(火)甲午(舊十月九日 晴のち曇り

 

今日の讀書・・今日も、『史料綜覽』 を開き、讀みはじめたところ、天暦四年(九五〇年)二月二日の條に、面白い記事を發見しました。 

 

「中院北門邊ニ死人ノ頭アリ (西宮記)」 

 

『史料綜覽』 ではこれだけでしたので、『大日本史料』 のその同じ條を開き、『西宮記』 がどう記してゐるのかをたしかめたところ、「死人ノ頭アリ」につづけて、まだ記されてゐました。 

 

「其形如破云々、右大臣(師輔)聞此由、佇立、即有定、不爲穢、諸祭如常云々」 

 

つまり、もともとの史料によれば、「死人ノ頭」が見つかつたのは、大内裏の中でも内裏のすぐ西隣の「中院(中和院)」の北門あたりでした。それを右大臣(師輔)が聞きつけ、しばし呆然と佇んだやうです。何せ、割れたお椀()のやうな死人ノ頭でしたから、血が流れてゐたかどうかは判然としませんが、内裏が穢れたと判斷してもおかしくはありません。ところが、すぐに立ち直つて、自ら定めたのでせうか、それとも何らかの定めに従つたのでせうか、「これは穢(けがれ)なしとしよう」と決めました。それで、恆例の祭儀がいつものやうに行はれたといふのであります。

 

まづ、なぜこの事が 『西宮記』 に記されてゐたかといふとにぼくは疑問を持つたのですが、實は、この書は「有職故實」と言つて、いはば前例集といふか、判例集なんですね。穢れと思はれることに遭遇した場合には、どのやうに處置したらよいのか、その前例が記されてゐるわけです。 

右大臣の師輔さんが遭遇したこの事件は、天暦四年(九五〇年)二月二日に起こつたことですが、それを一つの具體的な前例として記されてあるのが 『西宮記』 なのでありました。

 

それにしても、「割れたお椀のやうな死人ノ頭」を見て、師輔さんはどうして「穢なし」と判斷したのでせう。さらに遡つてできた、「定め」のやうなものが本當にあつたのか、それとも師輔さん個人の「穢觀」のやうなもので判斷したのか、ここが問題ですね。調べる價値はありさうです。それには、先日求めた、山本幸司著 『穢と大祓』 が大いに役立ちさうです。 

 

補注一・・『西宮記(さいきゅうき)』 平安時代の儀式・故実(こじつ)の典拠書。〈さいぐうき〉ともいう。撰者は源高明(たかあきら)。高明の邸宅が平安京の右京(西京)にあったため、彼は西宮(にしのみや)左大臣と呼ばれ、これが書名の由来となる。 

補注二・・「有職故実」 平安時代になって朝廷の儀式典礼が盛大に行われるようになると、それに関する正確な知識が要求され、有職故実の学が発達し、有職書が編纂される。源高明 《西宮記》、藤原公任 《北山抄》、大江匡房 《江家次第》 はその代表的なものである。 

 

今日の寫眞・・今朝屆いた、天理圖書館善本叢書。また顔をのぞかせたノラとココ。