十一月十三日(日)己亥(舊十月十四日 晴

 

今日の讀書・・山本幸司著 『穢と大祓』(平凡社選書) 繼讀。ちやうど半分の「第一部 穢とは何か」を讀みましたが、まとめやうがないといふか、はつきりしないことが多い問題であることがわかりました。 

そもそも、「制度的な規定の整備は別として、穢の観念の存在そのものは少なくとも記紀(『古事記』・『日本書紀』)の段階には認められるものと考える」、と著者は述べてゐます。つまり、貴族層のみならず庶民にも穢意識は浸透してゐた、いはば「日本人は清潔の民で、死穢を忌むことはなはだしかったといわれる」、とおつしやるのであります。しかし、これは日本人にかぎつたことではありません。 

まあ、「兩墓制」の問題もありますので、たしかに庶民にも穢意識はあつたでせうが、ぼくはそれほどはつきりした意識があつたとは思へないのですが、それは脇においておきませう。(補・・「兩墓制」については、『歴史紀行十九中仙道を歩く八』に詳しく述べました) 

穢に關する制度的な整備とは、『延喜式』 といふ當時の「六法全書」に「整備」されることでありまして、それによつて何がなされたのかといへば、「天皇を中心とするおおきな秩序の維持を問題とする貴族層にとって、穢から守るべきものと意識された空間的範囲」を規定することでありました。内裏や神社およびその儀式や祭儀の穢に關しての記録がそのほとんどを占めてゐるのが、ひとつの證據ともいへるでせう。 

つまり、穢の観念を利用して、庶民をはじめ、貴族層を支配する、といふか、

「天皇を中心とするおおきな秩序」を守るのに役立てたわけなのですね。それで、天皇に對する罪を不敬罪とよび、單なる犯罪とは區別してゐるんです。天皇を穢したといふ罪です。「天皇を中心とするおおきな秩序」を脅かすことだと言ひ換へてもいいでせう。これは、おそらく今日においても少しも變はつてはないんでせうね、きつと。

 

でも、庶民はあまり登場してきませんが、穢についてはけつこう無頓着だつたのではないでせうか。むしろ、庶民は、家族であらうが、死にそうになると、死ぬ前に鴨川の川原や鳥邊野とか化野に捨てに行きました。死ぬと穢が發生してしまふのでその前に廢棄してしまつたわけです。なんと慘いことをと思ふのは現代人の勝手なんですが、死體や遺體への畏れよりも、やはり穢を畏れたのでせうか。それとも、秩序維持のために洗腦でもされたのでせうか。一考の價値がありさうです。 

 

今日の寫眞・・十二世紀後半に制作された 『餓鬼草紙』 の一場面。平安時代末期の葬送風景です。本文と直接には關係ありませんが、まあ、當時の死體の處置の仕方がわかります。 

 

*補注一・・『餓鬼草紙』 鎌倉時代の初めに制作された「六道絵」の一つに「餓鬼草紙」がある。餓鬼とは人が死んだあとの、成仏できないでいる霊魂のあり方をあらわすものだが、この餓鬼の様々な様相を絵に現したのが「餓鬼草紙」だ。このうち、「塚間餓鬼」と称されている一枚は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての、埋葬場所の有様を伺わせる貴重な資料ともなっている。 

塚間餓鬼とは、塚(墓)の合間を漂っている餓鬼である。この絵には、五匹の餓鬼が描かれているが、いずれも墓からさまよい出てきた死者の亡霊だと思われる。彼らがさまよっているところは、古代の共同墓地なのだろう。そこには、盛土をした塚や、石で組んだ墓の外、棺に入れられた死体や、野ざらしに置かれた死体、白骨化したものなど、さまざまな光景が描かれている。この時代には、身分の高い者は墓を拵えて貰ったが、身分の低い庶民は、そのまま野ざらしに捨てられたのであろう。