十一月十七日(木)癸卯(舊十月十八日 晴

 

今日の讀書・・山本幸司著 『穢と大祓』(平凡社選書) 讀了。讀みかけだつたのを、どうにか讀み上げました。「第一部 穢とは何か」に續いて、「第二部 大祓」についてでした。それが、穢が生じたから大祓をするのではないといふ指摘があつたところまででしたので、つづいて、「大祓の定義」が書かれてゐたので、そのまま書き寫します。 

「神を中心に形成された秩序を損なうような〈穢〉に対して、神が怒り、その結果としてもたらされるであろう〈災い〉を防ぐために、そうした〈穢〉を生じさせた人間の行為=〈罪〉を謝罪し、神との関係を確認あるいは再確立することによって国土全体の安全と自然の循環を確保するための儀礼が、大祓なのである。この規定に従えば大祓は穢の除去と直接には無関係だということになる。」 

つまり、「人間社会が常に誰も知らない所で、意識的であれ無意識的であれ誰かが罪を犯しているかもしれず、そうした罪がいつ何時、神の怒りを呼び、災いとして降りかかってくるか分からないという、潛在的な脅威に絶えず曝されている」國土の淨化のために、定期的に行はれたのが「大祓」だといふことになりさうです。 

それと、佛敎も、鎭護國家佛敎として、「仁王會」のやうに宮中で行はれた重要な儀式の場合には、大祓がなされてゐます。例へば、『日本紀略』 天徳二年五月八日の條では、「大祓。依仁王會也」とあります。なんとも、神がかりで世の中は動いてゐたのでありますね。

 

ところで、神社は、「神を中心に形成された秩序」にほぼ完璧に組み込まれてしまつてゐましたが、「仁王會」をはじめ、御齋會、季御讀經、灌佛會、その他多くの佛敎の儀式も、儀式として、鎭護國家儀式そのものでありますね。ところが、佛教と穢の關係においては、このやうに、「神を中心に形成された秩序」である朝廷に仕へる一方で、「穢を意に介さず、場合によっては積極的に穢と関わっていく傾向」があつたと著者は言ひます。 

ですが、ぼくは、これこそが佛敎の本來の姿だと思ふのですが、「穢を禁忌とせず、それと対決しようとする動き」が、庶民の間ではすでに起こつてゐたのです。 

「鎭護国家の道具として将来された仏教が穢を忌避しつつ、宿痾や疾患に悩み、救済を求める人々を、僧侶になることからも、あるいはまた極楽往生の途からも閉め出していたのに比べるとまさに対極に」あつたのが鎌倉新佛敎なのであります。が、それも限定して考へる必要はなく、すでに、「行基に始まり空也から一遍に及ぶような遊行する宗教者たち」が見られるのは周知のこと。 

ですから、「大本營發表」のやうな官製歴史書ばかりを讀んでゐたのではだめだといふこともよく分かりました。むしろ、『今昔物語集』 や 『宇治拾遺物語』 等の説話において、穢の觀念を覆す動きがはじまつてゐたことがうかがへてとても興味深いです。 

 

*補注一・・「仁王会(にんのうえ)」 天下泰平、鎮護国家を祈願して『仁王般若経』を読誦する法会。中国では陳の永定3 (559) 年に、日本では斉明6 (660) 年に初めて行われた。その後、毎年二、七月頃に宮中大極殿、紫宸殿、清涼殿などで行われた。 

 

昨日は、服部さんと、久しぶりに本のこと、讀書のことについて話すことができました。學生時代から、敎へていただいた本はほとんど讀んできまして、それが現在の讀書の基礎になつてゐることをしみじみと感じます。それで、昨日の話題は、飯嶋和一さんでした。ぼくは、『出星前夜』だけは圖書館から借りて讀んだのですが、これからはみな購入して讀もうかと思つてゐます。著作年代順に記します。 

 

『汝ふたたび故郷へ帰れず』(1989.01)小学館文庫 

『雷電本紀』(1994.06)小学館文庫 

『神無き月十番目の夜』(1997.06)小学館文庫 

『始祖鳥記』(2000.01)小学館文庫 

『黄金旅風』(2004.03)小学館文庫 

『出星前夜』(2008.08)小学館文庫 

『狗賓童子の島』(2015.01)小学館 

早速、入手ずみの二册をのぞく四册を、アマゾンの古本で注文しました。 

 

また、昨日から讀みはじめた黒川さんの、『落英 上』(幻冬舎文庫) を讀み上げ、『落英 下』に入りました。 

 

今日の寫眞・・現在も醍醐寺で行はれてゐる「仁王會」。今手もとにある二册。