十一月廿二日(火)戊申(舊十月廿三日・小雪 晴

 

今日の讀書・・朝起きたら寒くて、朝食後ふたたび床に入り、せつかくですから、『蜻蛉日記 下』 をひきつづき讀みました。毎日數頁づつしか進まない讀書ですが、今朝はまとめて讀むことができました。 

晝からは暖かくなり、机に向かつて 『日本紀略』 を繼讀。讀み進んだのは二年半分。康保二年(九六五年)正月から、康保四年(九六七年)なかばまででした。といふのは、その五月に村上天皇が突然亡くなり、 『日本紀略 後編四』 が終つたからです。 

さて、今日の収穫は、四つほどありました。 

一つ目は、『日本紀(日本書紀)』が、宮中で讀まれたゐたことです。 

 

康保二年八月十三日庚戌 以具平皇子、爲親王。於宜陽殿東庇、始講日本紀。以橘仲遠爲博士。 

 

「宜陽殿東庇」といふ宮中の場所において、橘仲遠爲博士といふ先生がついて、『日本書紀』 の講讀がなされたのです。 

ただ、この「始」がどのやうなはじめなのか。その日に、「以具平皇子、爲親王」とありますから、親王となつた具平皇子のためのお勉強として始めたとみていいでせう。 

しかし、ぼくは、『日本書紀』 の講讀は、宮中において、藤原不比等の描いた天皇制を徹底させるために繼續して講讀されたといふことを、以前讀んだことがあります。親王のみならず、公卿らは必ず學ぶことが課されたのではないでせうか。 

 

二つ目は、天體の異常について! 數ケ月のあひだに集中してゐるんです。天文博士保憲が、その異状を測して報告してゐる記録です。星の名前が、漢字ですので、今日の何星なのかはよく分かりません。また、これらがどのやうな異状なのでせうか? 

 

康保三年(九六六年)正月九日乙亥 天文博士保憲、上去八日月犯昂星異状。(天文博士保憲は、去る八日、月が昂星〈すばる〉を犯すといふ異状を上奏した) 

同月十五日辛巳 天文道、申去十四日、月奄食軒轅大星異状 

同月廿三日己丑 天文道、上言去廿一日丑時、月犯心後星。 

二月十日乙巳 天文道、申去八日、月奄蝕五車司空異奏。 

同月十二日丁未 天文道、申去十一日夜、月犯輿鬼大將軍星異奏。 

同月廿八日癸亥 天文道、申今月廿七日、惑犯東井、獨臣星異奏。 

三月一日丙寅 天文道、申二月廿八日戌刻、惑、入犯東井北轅西頭第一星、異奏。 

 

ところで、「天文博士保憲」とは、賀茂保憲でありまして、天文博士にして陰陽師、暦博士でもあります。賀茂忠行の子ですから、忠行から陰陽道をんだ安倍晴明とは兄弟弟子といふことになります。いよいよ、安倍晴明君の出番が回つてきたのでせうか! 

さういへば、夢枕獏さんの 『陰陽師』 にも登場してをられましたね。 

三つ目は、小野道風(おののみちかぜ)の死です。 

 

康保三年十二月廿七日丁亥 是日、正四位下行内藏頭小野朝臣道風卒。年七十一。 

 

「卒(そつ)」とありますが、これは四位・五位、あるいは僧侶の死に對する呼び方です。皇族や三位以上の人の死は「薨(こうず)」、天皇・皇后などの死は「崩(ほうず)」または「崩御(ほうぎょ)」と呼びます。 

道風は書の達人だつたはづですよね。三蹟のひとりで、和様の書法の基礎をつくつたと、ものの本にありました。『玉泉帖』といふ眞筆代表遺品があるさうです(今日の寫眞參照)。 

そして、四つ目は、村上天皇の突然の死です! 

 

康保四年(九六七年)五月十四曰壬寅 今日、天皇初御不豫。 

同月廿日戊申 五畿内伊賀、伊勢國等廿六箇國、可立率都婆六千基之由、被下宣旨。高七尺、徑八寸。依天皇御惱也。 

同月廿五日癸丑 依天皇不豫。詔大赦天下。但常赦所不免者不赦。巳刻、天皇崩于清涼殿。春秋二。在位廿一年。 

 

十四日に發病し、廿日には卒塔婆を作らせてその平癒を祈らせ、さらに廿五日には、大赦まで行ひましたが、その甲斐なく亡くなつてしまひました。 

あまりのも突然の死でありまして、どうも一服盛られたのではないかと疑ひたくもなります。なにせ、次期冷泉天皇はまだ十七歳。藤原實が關白となり、事實上藤原氏が政務を擔當、外戚藤原氏の勢力伸張に拍車がかかつたと申し上げて間違ひありませんね。  

 

今日の寫眞・・妹と姪とその子を迎へて大騒ぎ。本日届いた、小林勇著『蝸牛庵訪問記』(講談社文芸文庫)それと、『大日本史料 第一編之十一』 に挿入されてゐた、『玉泉帖』の小野道風の書です。