十二月五日(月)辛酉(舊十一月七日 晴

 

今日の讀書・・今日も、滝沢解著 『空也と将門』、を繼讀。ときどき、手つ取り早い調べものと稱して、寄り道をしながら讀み進んでゐますが、今日は、三年前に古本まつりで求めた、『史蹟 將門塚の記』(史蹟將門塚保存会刊行) といふ册子を開いてみました。 

さうしたら、びっくりするやうなことが書かれたあつたのです。それがまた本當のことのやうなんです。

 

平將門は平安時代の人物でありますが、朝廷に反逆したとされ、下總で討死。その首級は京都でさらされたのち、「持ち去られて、武藏國豊島郡柴崎(芝崎)、現在の千代田区大手町に埋められ塚が築かれた」とも、怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀つたともいはれてゐます。 

鎌倉時代になつて、荒した首塚は修復され、江戸時代を通じて江戸つ子の崇拝をうけてきました。しかし、明治になつて、東京が首都になると、將門への冷遇がはじまりました。 

まづ、首塚は大藏省内にとりこまれ、一應は塚の上に「故蹟保存碑」もたてられたものの、大正十二年(一九二三年)の關東大震災で破損したさいに、その跡地は整地されて、大藏省の假庁舎が建てられてしまつたのです。異變はこの時に起こつたのでした。 

 

大正十五年(一九二六年)九月、ときの大藏大臣が突然に病死。ついで十四人もの役人があひついで死に、怪我人も非常に多く、それも不思議に足を負傷する者が多かつたといひます。「このためだれいうとなく、首塚をこわした崇りであるという噂が拡がって、大いに人びとを脅かし、遂に首塚の上に建てられた庁舎を取りこわしてしまった。」 

そして、昭和二年(一九二七年)に首塚が復元され、鎮魂祭がおこなはれたことによつて、「漸く省内の不安を取り除くことができたという。」 

ところが、慰霊祭が緊迫した時局によつておろそかにされたからでせうか、「昭和十五年六月二十日の雨中突然大蔵省本庁舎に落雷し、忽ち主要建物を炎上してしまった。・・・将門霊神の崇りであろうということになった。また時あたかも将門公没後壱千年に当ったため、盛大な壱千年祭が河田烈大蔵大臣の指示で挙行された。」

 

まあ、これだけでもあきれてしまひますけれど、さらに、「戦後になってアメリカ軍が進駐すると、焦土と化したこの地にモータープール設置計画がおこったが、整地をすすめていたブルドーザーが突然転覆し、運転していた日本人が死亡した。見ると焼土の中に墓のようなものがある、不審に思って、・・・米軍の隊長に話をし、・・・昔の大酋長の墓ということで理解を得」たといふのであります。 

 

將門さん、大酋長ですよ!  

ぼくは、この本を手に入れてから興味がわいて、二〇一三年十二月十八日に訪ねてきました。林立するビルの谷間にあつて、こんもりとした森に守られた首塚でした。 

その塚の前で熱心に祈るサラリーマン風のおぢさんの後ろ姿を見て、ぼくは、まだ將門さんは生きてゐるのかも知れない、その復活を願ふ人がゐてもおかしくはないと思ひました。 

 

今日の寫眞・・『史蹟 將門塚の記』(史蹟將門塚保存会刊行)と、この本に導かれて訪ねた將門塚。それと、弟の展示會案内。