十二月十三日(火)己巳(舊十一月十五日 晴のち曇天

 

今日は、午前中、今年もお世話になつた弓道の坂本さんと齋藤さんをお訪ねして、暮れの挨拶にうかがひました。あらためて、齋藤さんのマンションの管理の重な事に驚き、また宮司さんのところでは、新年にむけてのご準備で忙しさうなのには同情を禁じ得ませんでした。 

あ、さう、坂本さんからは、來年の『神社暦』をいただきました。今年も使つてきましたが、けつこう便利なのであります。薄いしね。 

 

〈將門紀行 その前哨戰(二)〉 

 

この神社には、佐倉ゆかりの英雄である平將門と佐倉惣五郎が祀られてゐのです。神社としては小さくて、圍ひや塀もなく、道路から直にどこからも入れてしまひます。そのなかでも目立つのはマテバシイの巨木と石の鳥居です。特に鳥居は江戸時代に寄進されたもので、佐倉市の指定文化財になつてゐるさうです。 

その右柱には、「奉寄進石之華表 將門大明神 承應三甲午年十一月吉日」、左柱には、「佐倉之城主從五位下 総州印旛郡 堀田上野介紀朝臣正信」と刻まれてゐます。 

また、左脇に建つ石碑は新しく、神社の「由緒書」でせうか。寫しておきませう。 

 

《大佐倉将門口ノ宮神社再建の碑》 

「 将門神社 平親王将門大明神 

 平小次郎将門は、平安の時代に板東の地に桓武六代の帝系として生まれました

 一族の横暴と都での栄華を極める藤原摂政政治のもとに苦しむ民衆のために決起し瞬く間に板東一円を治め平親王と名乗りましたが志半ばにして非業の最期を遂げたと言われています。 死後、多くの民衆から板東の英雄として追慕する声が高まり各地に将門神社が建立されました 

 大佐倉の将門神社の創建は定かではありませんが桓武平氏の同族である本佐倉城主の千葉氏により建立されたと伝えられています 石の大鳥居は三百五十年前(承應三年・一六五四年)に佐倉藩主堀田正信公により奉献されたと記録されています 

 奥ノ宮の桔梗塚は将門の愛妻の桔梗の墓といわれていますが将門を偲びこの地には桔梗の花は咲かないという言い伝えがあります 」 

 

まあ、將門を「英雄」としてしまつていいものか、歴史的にはその反対の批判が優勢でしたから、即斷してはいけませんが、追慕し祀る人々がゐてこその神社ですから、たしかにさういふ面はあつたのでせう。 

さういへば、先日讀んだ赤城宗徳著 『新編將門地誌一』 に興味深いことが書かれてありました。

 

「水戸黄門(徳川光圀)は、・・・四十歳のころ房総を経て鎌倉に行ったときの旅行記 『甲寅紀行』 が残っている。 

それによると、延宝二年(一六七四年)四月二十二日に水戸を出発し、・・・成田を経て、二十六日酒々井に到着、二十六日は、酒々井から浜宿を経て、本佐倉という道順であったらしい。浜宿の勝胤寺から、本佐倉への途中のことについて、『帰路の林中に、將門が小社あり』とある。 

『大日本史』 の中で、徹底的に批判を加えた將門が、庶民の手によって、こうして社に祀られているのを、庶民感情を大いに気にしていた老公は、どんな気持ちで見たことであろう。」

 

その通り、とぼくも思ひますね。この「小社」とは、地圖によれば、「將門口ノ宮神社」かも知れません。 

 

さて、驛から數分のこの臺地が、かつては武者で賑つてゐたであらうなんてことは想像すらできません。それほど静かで靑い空がひろがつてをりました。 

《再建の碑》の後半に記された佐倉惣五郎については、後日また探訪しなければならない、歴史的にも文化的にも重要な人物ですが、今日のところは通り過ぎることにしまして、つづいて、この先にあるといふ、「桔梗塚」を訪ねました。 

將門神社からそこまではほんのわづか、指呼の距離とはこのことを言ふのか、と思はれる場所に、とても形の良い榎の木蔭に、「桔梗塚」 はありました。 

 

いやあ、ぼくはこんなすてきな場所ははじめてですね。ロケーションができすぎてゐますよ。冬枯れした雑木林に圍まれ、収穫後の土くれをくねらせてゐる畑の地つづきの小高いともいへない野原の中央に石碑は建つてゐました。 

「桔梗は将門の愛妾の一人であったが、敵将藤原秀郷の間者(妹といふ説もある)でもあったという。その桔梗に影武者と将門の見分け方を教えられた秀郷が将門を討」つことができたといはれてゐます。この件(くだり)は、『御伽草子』の中の「俵藤太物語」に詳しいですね。 

それで、「将門を偲びこの地には桔梗の花は咲かないという言い伝えがある」といふことですが、石碑には、 

「花もなくしげれる草の桔梗こそいつの時世に花の咲くらむ」 

と、悲しげな歌が刻まれてありました。(つづく) 

 

今日の寫眞・・お訪ねした天祖神社。そして、今日の内容の關連地圖。 以下は、別の角度から見た「將門口ノ宮神社」と「桔梗塚」と田園風景。