十二月十六日(金)壬申(舊十一月十八日 晴

 

今日の讀書・・今日も、『將門記』 と、『物語の舞台を歩く 将門記』 と、地圖とを照らし合はせながら、『將門記』 の内容の展開を確認していきました。

 

《將門記の旅》(二)

 

*ところで、承平五年(九三五年)十二月、《川曲村の戰ひ》(同年十月)の直後に、將門は、源護(みなもとのまもる)によつて朝廷に告訴され、承平六年(九三六年)十月には上京を余儀なくされます。が、この時は、恩赦によつて歸郷することができました。それが、承平七年(九三七年)五月のことであります。 

 

(四)《子飼の渡しの戰ひ》 承平七年(九三七年)八月六日 この戰ひでは、高望王と將門の父、良將の「靈像」を陣の前に掲げて進軍する、「精兵を整えて襲ひ攻む」る良兼軍を前に、「未だ旅の脚を休めず」にゐた將門は敗退し、「酷き怨みを懐き」つつも、退却せざるを得ませんでした。 

*「子飼の渡しは、現茨城県下妻市大園木と同県つくば市吉沼の境を流れる小貝川に架かる愛国橋の辺りで、関東鉄道常総線宗道駅から東へ四〇分」のところで、「当時は、下総と常陸国をつなぐ渡で、交通の要衝であった」さうです。 

 

(五)《堀越の渡しの戰ひ》 同年八月十七日 この戰ひを、《子飼の渡しの戰ひ》 のうちに入れてしまふ分け方もありますが、ここでは別にしておきます。 

なにせ初の大敗をきした將門ですから、ここで一擧挽と、多日をずして、良兼軍を待ち構へました。ところが、こんどは、將門自身が突然の脚氣に襲はれ、逃げ惑ふばかり、妻までさらはれてしまひます。良兼にしたら、娘ですから、前々から奪ひ返すつもりだつたのかも知れません。 

*「堀越の渡し」は、宗道驛から、「子飼の渡し」とは反対の西方向、鬼怒川渡つた、仁江戸と呼ばれる場所です。そこに現存する「御所神社」は將門の居館だつたところ。また、鬼怒川の左岸の鎌輪の宿は將門の本遽地の一つがあり、有利だつたはずですが、二度つづけての敗戰には相當まゐつたやうで、「伯父と宿世の讎(あだ)となりて」と、『將門記』は記してゐます。

 

(六)《弓袋山の対陣》 同年九月十九~廿三日 現千葉縣山武郡横芝光町の所を本遽地とする良兼が、常陸國の姻戚を訪ねるといふ情報を耳にした將門は、「常陸國眞壁郡に發向」し、「介(良兼)の服織の宿より始めて、・・筑波山にありと聞き」、「弓袋の山の南の谿より」攻めますが、秋の収穫が終はつてゐない「稻穀を焼き、稻穀を泥に敷き、稻穀を滅」ぼしただけで、「終に其の敵に逢はずして、空しく本邑に歸りぬ」。つまり、合戰はなかつたわけですけれど、六番目の戰ひとしておきます。 

*「眞壁」、「服織(羽鳥)」は筑波山の眞北。「弓袋山」は筑波山頂上から加波山へ至る峰續き、北東へわづかなとことにある湯袋峠がさうです。石岡市小幡から眞壁へ超える縣道月岡眞壁線の湯袋峠でもあります。羽鳥には、良兼の墓も傳へられてゐるといひます。

 

(七)《將門、良兼を石井にて迎撃す》 承平七年(九三七年)十二月十四日夜 密偵小春丸の報告を受け、將門の本拠地石井營所に夜討ちをかけた良兼軍勢でしたが、氣配を察知した「將門の兵十人足らず。・・將門眼を張り齒を嚙みて、進み以て撃ち合ふ。時に、件の敵等楯を棄て雲の如く逃げ散る」。いいところですので、もう少しつづけます。「將門馬に羅(かか)りて風の如く追ひ込む。これを遁るる者は、宛も猫に遇へる鼠の穴を失へるが如く、これを追ふ者は、譬へば雉を攻むる鷹の(ゆごて)を離るるが如し。云々」とまあ、このへんにしておきませう。 

*この「石井營所」については、坂東市岩井の鳥廣山が、「傳石井營所跡」とされてゐます。ここへは、二十一日の初の 「將門紀行」 で訪ねる餘定でをります。 

 

*以上、ここまでは、わりと分かりやすい展開でしたが、ここからが複雑怪奇でありまして、「將門記の旅」と稱した、『將門記』 の展開をいかにまとめられるかどうか、ちよいと自信がありません。はい。 

 

將門紀行 その前哨戰(五) 

「八幡の藪知らず」は、前評判に違へず、やはり不思議なところでした。手入れがなされず荒れ放題でありますが、タケノコは採れるのでありませうか。いや、それでも中に入る勇氣はありませんね。 

さて、つづいて、大鳥居までもどり、葛飾八幡宮を訪ねました。參道の途中に京成電車が走る踏切があり、ちよつと變はつてゐます。テレビで見たりして知つてはゐましたが、實際に訪ねるのははじめてです。大きな天然記念物の銀杏の木があるはづなんですが、さて・・。 

 

*葛飾八幡宮 寛平年間(八八九~八九八)に宇多天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請して建立されたと伝えられている。 下総の国を守護する総鎮守として崇敬されている。武神であることから平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など関東武士の信仰を集めた。境内には、千本公孫樹(せんぼんイチョウ)、推定樹齢一二〇〇年、国の天然記念物に指定されている(指定名称は「千本イチョウ」)。 

 

ありました。静かな境内の、社殿のそばにそびえてゐました。樹木で國の天然記念物といふのは珍しいのではないでせうか。「多数の樹幹が寄り集まって、まるで根元から一本の大樹がのびているように見えるところから、千本公孫樹の名で呼ばれてきました。」とあります。 

それと、この神社、「平将門、源頼朝・・など関東武士の信仰を集めた」 やうですから、「將門紀行」 のうちに入れておきませう。 

參道を線路までもどり、線路沿ひに八幡驛まで行き、その踏切のそばの、例の大黑屋に入り、お約束どおりにかつ丼をいただきました。ただ、まだ歩く豫定なので、お銚子につく〈荷風セット〉は遠慮しました。(つづく) 

 

今日の寫眞・・葛飾八幡宮とその千本公孫樹。大黑屋とそのかつ丼。