十二月十七日(土)癸酉(舊十一月十九日 晴

 

今日の讀書・・今日は、また足腰の運動のために、古本散歩に出かけてまゐりました。家を出てから歸るまで、一一八〇〇歩でした。先日の 《將門紀行 前哨戰》 が一四七〇〇歩でしたから、まあ、毎日でなくてもいい運動になつてゐると思ひます。 

それで。今日は、神田の東京古書會館と五反田の南部古書會館で開催中の古書展を見學がてらのはしご散歩でした。収穫は、さう、五十嵐書店さんの出品でしたから、貴重な影印本を何册か掘り出すことができました。 

そのうちの、『西行上人談抄』(ノートルダム清心女子大学古典叢書) は、「西行の弟子蓮阿が、西行の和歌に関する言談を聞書して綴ったものである」、といふものです。 

二册目は、『校本 藤原義孝集目録』(親典社) といふ書名なんですが、中には、影印の 「藤原義孝集」 と 「義孝集」 が収められてゐます。この人、知る人ぞ知るで、『小倉百人一首』 の五十番に、「君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな」 が入つてゐます。 

この際ですから、どういふ人物か見ておきませう。 

 

*藤原義孝(ふじわらのよしたか)(九五四~九七四) 摂政・太政大臣・藤原伊尹(これただ・これまさ)の三男で、十八歳で正五位下・右少将になりました。「末の世にもさるべき人や出でおはしましがたからむ(今後もこのような人は現れないだろう)」と言われるほどの美男で人柄も良かったのですが、痘瘡(天然痘)にかかってわずか二十一歳の若さで死去しました。 

 

つまり、伊尹の父は忠平の次男・師輔であり、弟には兼家がゐますから、その子の道長とは從兄弟になります。また、子には三蹟の一人藤原行成がゐます。 

ちなみに、父の伊尹には 『一条政御集』 があります。もちろん入手み。 

三册目は、『東海道中勝景行程記』(太平文庫) です。和本ですと、目の玉が飛び出てしまひますが、新しい製本なので手頃な値段でした。 

さて、古書會館を出て、五反田に直行と思ひきや、つい、八木書店さんの二階に上がり、この一年のお禮を言つたのですが、氣にのいいお兄さんに、かへつて來年のカレンダーをいただいてしまひました。いつもにこにこ迎へてくれて、大きな聲では言へませんが、ときどきおまけしてくれるんです。はい。 

五反田は不作でした。それで、都營地下鐡を乘り繼いで、京成八幡驛に行き、そこで早めの夕食をいただいて帰路につきました。 

 

將門紀行 その前哨戰(六)

 

大黑屋でかつ丼をいただいたのち、前回は永井荷風の終焉の地を訪ねたので、今日は、幸田露伴の終焉地を訪ねるつもりで歩きはじめました。たよりは、先日讀んだ、小林勇さんの、『蝸牛庵訪問記』(一九五三年七月脱稿) です。 

 

「菅野蝸牛庵への道」 (小林勇著『蝸牛庵訪問記』より) 

「(幸田露伴)先生が市川菅野へ移ってから、・・・それでも急に忙しくなった私としては、よくも訪れていたといえるだろう。 

お茶の水から省線に乗って本八幡で下りる。・・・そしてすぐに京成電車の本八幡駅の傍の踏切に出るのである。踏切をこえてゆけば右側に小学校、少しいって魚屋があり、その店から幸田家は魚をとっていた。それから二、三百メートルいったところを左に入ると右側に白旗神社がある。その境内をななめに突ききったところを十歩も左にゆけばまた右に折れる。生垣の間を百メートルもいくと小さな溝川に出て、その土橋を渡ってすぐに左に五十歩もいったところを、今度はまた右に折れて同じく五、六十歩で右側に市川菅野蝸牛庵があるのだ。」 

 

どうでせう。まづ、「荷風の散歩道」 に出て、北に向かつて歩きはじめました。小学校はありました。魚屋さんもありましたが、きつとここでせう。そしてその先を左に折れると、たしかに白幡天神社がありました。小林さんは「白旗神社」と書いてをりますが、由緒書きによれば、明治四年(一八七一年)に菅原道眞を合祀してから、社名に「天」の字が加へられたとあります。また、「旗」と「幡」は意味は同じであります。 

 

*白幡天神社 一一八〇年(治承四年)、源頼朝が安房国に旗揚げしたとき、菅野の地に白旗を揚げたことから白幡宮と名付けられたと伝えられる。その後、一五八四年(天正十二年)正親町天皇の代に本殿再建の記録がある。一八七一年(明治四年)に菅原道真を合祀してから、社名に「天」の字が加えられ、白幡天神社と呼ばれている。現在の本殿は、一八八〇年(明治十三年)に造営され、拝殿・幣殿は一九六一年(昭和三十六年)に造営された。(なお、太田道灌が社殿を造営したとの説もある。) 

祭神は、武内宿禰、菅原道真。文化財その他は、柴田是真による画連句額は二〇〇六年に千葉県指定文化財として指定されている。拝殿にかかる社額は勝海舟揮毫による。 

二〇一〇年には境内内に永井荷風と幸田露伴の文学碑が建立された。永井、幸田ともに晩年に白幡天神社近くに移り住み、作品の中でも白幡天神社の様子を記している。永井、幸田ともに晩年には白幡天神社近くに移り住んでいたことによる。永井荷風文学碑には「断腸亭日乗」からの引用が記され、幸田露伴文学之碑には娘の幸田文の著作「菅野の記」に白幡天神社の描写があることが示されている。また、幸田露伴の葬儀は白幡天神社で執り行われた。 

 

いやあ、またながながと寫してしまひましたけれど、ここは隠れた名所ですね。 

 

今日の寫眞・・八木書店さんのカレンダーと、購入本。それと、幸田家が魚をとつてゐた魚屋さん。白幡天神社とその境内の、「幸田露伴文學之碑」と「永井荷風歌碑?」。