十二月十八日(日)甲戌(舊十一月廿日 晴

 

今日の讀書・・今日は、《將門記の旅》 をつづける前に、《将門紀行 その前哨戰》 を書き終はらせました。 

それが午前中ですんだので、晝から、今日最終日を迎へる、出光美術館で開催してゐる、『時代を映す仮名のかたち』展を見に行つてきました。綾瀨驛から千代田線で日比谷驛まで、そこから探し探し歩きました。 

ところが、開館50周年記念といふのですが、まあ、なんと分かりにくいといふか、どこから入場してよいのか、前回訪ねたときにも迷ひましたが、なにしろ分かりづらいところにある美術館です。50年間、だれも文句を言ふ人はゐなかつたのでせうか。 

地下通路からビルに入りましたが、そのビルの中をぐるぐる上下左右に歩き回つた末、一度外に出なければ9階にある美術館までの専用エレヴェーターに乘れないことがやつと分かり、乘りましたよ。で、息を切らしつつ入館料を拂つて、それも二〇〇圓引きで入ることができました。

 

でも、内容は素らしいものがありました。何が素らしいと言つて、讀めるのです。平安時代に書かれたものは少なく、鎌倉、室町時代の筆が多かつたためでせうか、連綿がきつくなく、むしろ一文字一文字がはつきりと書かれてあるので、讀んで理解するにはこの上なく愉快でありました。 

後鳥羽天皇筆の一幅、「熊野懐紙」。伏見天皇筆の一巻、「廣澤切」と「築後切」。それに、傳京極爲兼筆の「玉葉集切」のなかの、「なかめこし 身ハいたつらに 秋をへて ゆくすゑおもふ 月そかなしき」 がよかつた。 

傳後醍醐天皇の筆もありましたが、イメージの人からは想像もつかないくらゐ弱弱しくか細い筆致でした。「なからふる かいこそなけれ あふことに かへぬいのちの のこるつらさは」。「未詳歌集の断簡」ださうですから、後醍醐天皇の歌かどうかもはつきりしませんが、歌もか弱いですね。 

まあ、このやうにして、ぼくの武者修行はつづきます。ますますすらすら、意味内容もわかるやうになりたいものであります。 

 

將門紀行 その前哨戰(七)

 

と、ここまではよかつたのですけれど、天神社をあとにして歩きはじめたらもういけません。『蝸牛庵訪問記』 に記されてあるやうに、左に、右に、また左に、またさらに右にと歩いてゐるうちに、わけがわからなくなりました。 

そもそも、「小さな溝川」はないし、「土橋」もありません。「五十歩もいったところ」あたりのどの道を右折したらよいのか、・・ああ、たうとう 「市川菅野蝸牛庵」 は分からずじまひ。それでも、このへんだらうと思へるところの寫眞だけはおさめてきました。 

あとは、「御代院」 を殘すのみ。ついでに市川眞間驛まで歩く覺悟をして路地を歩きはじめました。さう、ほんとうの路地なんです。それもくねくねと、ただの畦道が住宅街になつたとは思へない複雑さです。荷風の養子となつた、永井永光さんが書かれた、『父 荷風』(白水社) に挿入された地圖(今日の寫眞參照)によれば、「曲がりくねった道 夜は真っ暗 ドロボーの花道ト云」と書かれてゐます。 

でも、地圖は正確に書かれてゐましたので、あやまりなく 「御代院」 を探し當てることができました。それは小さな祠で、お地藏さんといつてもとほるやうな雰圍氣でした。今日の 「將門紀行」 最後の目玉です。 

 

御代院 天慶の乱(天慶三年・九四〇)のとき、京都の菅野氏が、平将門調伏の志を抱いて妻と共に関東に下り、この地に居を構えた。 

妻の容姿が美しいところから「御代の前」と称して将門の内室になり、将門の出城といわれる大野城に入り、内情を探索して夫に知らせたところから大野の落城を早め、将門調伏に功績をたてたという。 

その後、夫妻は共に剃髪してこの地に留まり、将門と戦で亡くなった将兵たちの後世を弔いながらこの世を去った。 

夫妻の死後、里人はその志を哀れんで、墓標をたてて祀ったのがこの御代院だという。 

 

それで、この辺りを菅野(すがの)と呼ぶやうになつたらしいのです。これも、聞いてみないと分からないことですね。 

「ドロボーの花道」はどこまでもつづき、それでも方角を間違へずに、菅野驛を通り越して、市川眞間驛に到着することができました。 

〆は、古本屋。線路際にある智新堂書店さんを覘いてから歸路につきました。 

これで、第一回目の 「將門紀行」 は終りましたが、本番の現地紀行を三日後にひかへ、紙上の 《將門記の旅》 はまだつづきます。(おしまひ) 

 

《將門記の旅》(三)

 

*これまでに七回もの戰闘をかさねてきました將門さん、相當の力を蓄へてきたやうでありまして、それを、逃げ隠れして見てゐた宿敵從兄弟の貞盛君、このままではいかん、都に戻つて朝廷に報告しなければならんと思つたやうなのであります。 

 

(八)《信濃千曲川の戰ひ》 承平八年(九三八年)二月 貞盛は、「身を立て德を修むるは、忠行に過ぐるはなし」といふ、いはば體制的人間だつたやうで、「勞を朝家に積み、いよいよ朱紫の衣を拝すべし」が優先。「承平八年春二月中旬を以て、山道(東山道)より京上す」。 

が、それを察知した將門。「若し官都に上りなば、將門の身を讒せんか。貞盛を追ひ停めてこれを蹂躙せんに如かず、と」。ここに、貞盛を追ひかけ、「二月二十九日を以て、信濃國小縣郡の國分寺の邊に追ひ着き、千阿川を帶して」合戰が繰り廣げられたのであります。 

しかし、「貞盛幸に天命ありて、呂布(弓の名人)の鏑を免れ、山の中に遁れ隠れ」、「僅かに京洛に届(いた)る」。 

さあ、逃した將門はただではおさまりません。「千般(ちたび)首を掻きて、空しく堵邑に還りぬ」。さうたう殘念だつたやうであります。

 

*この戰闘は「信濃國分寺の邊」であり、その際に國分寺が焼けたと傳へられてゐるやうです。が、貞盛が布陣したのが對岸の尾野山で、それを「千曲川を渡った將門勢が敗走させ」、その山中の孫台(マゴデエ)の地が主戰場であつたといひます。 

「信濃國分寺」跡は、しなの鐡道線信濃國分寺驛から徒歩約五分。しかし、尾野山とその孫台は、行くことが難しいやうです。(つづく) 

 

今日の寫眞・・地圖(京成八幡驛から、八幡の藪知らず、葛飾八幡宮、大屋、白幡天神社、「市川菅野蝸牛庵」跡地付近、御代院、曲がりくねった道を經て、市川真間驛までの地圖)。「蝸牛庵」跡地付近。御代院。くねる路地の一角から京成電車の踏切を望む。さいごは、智新堂書店さん。 

それと、出光美術館専用入口とポスター。