十二月十九日(月)乙亥(舊十一月廿一日 晴

 

今日の讀書・・今朝、朝起きるのがつらくて、朝食後再び横になりました。でも目は起きてゐたので、壁に吊つてある、『蜻蛉日記』 を讀み進みました。すると、一昨日求めた、『藤原義孝集』 その本人が登場し、はつとしました。 

「もかさ(天然痘・疱瘡)せかいにもさかりにてこの一条の大上の大との(伊尹)の少將ふたりなから(擧賢と義孝の二人)その月の十六日になくなりぬと」、世間では「いひさはく」とありました。「もかさ」が流行した當時ならではの記録ですね。 

歴史と文學、からみあつてくると面白いです! さう、文學『將門記』と歴史とのからみあひも忘れてはなりません。將門が戰ひ滅んだ現地探訪まであと二日です。

 

《將門記の旅》(四)

 

*以後、頻繁な合戰はおさまりますが、しかし事態はより深刻になつてまゐります。「空しく堵邑に還」る將門に對し、《信濃千曲川の戰ひ》からからうじて京に逃れた貞盛は、早速に、「度々の愁の由を録して、太政官に奏し、糺し行ふべきの天判を、在地の國に賜ふ」まで、漕ぎつけました。 

ところが、これは『將門記』の地の文だと思ふのですが、かうつづきます。 

「去ぬる天慶元年(九三八年)六月中旬(この年五月に、承平から天慶に改元)、を以て、京下の後、官符を懐(いだ)きて相糺すと雖も、而も件の將門いよいよ逆心を施して、ますます暴悪をなす。」 

つまり、將門の逆心を糺す官符を「在地の國」に下したけれども、「件の將門ますます暴悪をなす。」といつたところでせう。 

「その内に、介良兼朝臣、六月上旬を以て逝去す」との情報が入りました。それでとぼくは思ひますが、貞盛は將門追捕に向かひたい。けれども、ほめてはくれた朝廷も、兵や武具までは出してくれなかつたやうで、そこでたまたま知人の陸奥守平維扶(これすけ)が奥州に赴任することを知り、「相共に彼の奥州に入らんと欲して」下向しました。 

 

*しかし、さうこうしてゐるあひだに、「宿世の讎(あだ)」となつた伯父良兼を失つた將門、悪友としか言へない仲間におだてられ、そそのかされして、平氏一族の私闘が終焉したかと思ひきや、たうとう公の戰ひに踏み込んでいくことになつてしまつたのであります。 

 

*そこに、貞盛が來るのを察知した將門、「隙を伺ひて追ひ來た」つたものですから、貞盛、「風の如く徹り、雲の如く隠」れおほし、姿を隠してしまひ、しばらく山中逃亡生活を餘儀なくされた模樣であります。 

これは戰ひとも言へませんので、戰闘の數には入れません。 

 

*話はさかのぼりますが、承平八年春二月中ですから、《信濃千曲川の戰ひ》の前後でせう、以後だいぶ端折つて進めますが、興世王と源經基、それに武藏武芝といふ在地の、まあ一癖も二癖もある連中に引き回され、源經基には、またまた朝廷に訴へられます。 

この氣の弱さうな源經基、源賴朝や義經の祖先だといふのですから歴史はわかりません。ちなみに、平貞盛は、平清盛の祖先ですからね、歴史はまことにからみあひながら織り上げられていくのでありますね。 

 

(九)《常陸國軍との戰ひ》 天慶二年(九三九年)十一月二十一日 さて、再び月日は下り、將門は、さらに、常陸國長官藤原維幾(これちか)に追はれた暴れん坊の藤原玄明(はるあき)をかくまつたうへに、その誘ひにのつてといふか力を貸して、相共に下總國から常陸國に攻め入り、國府を亡ぼしてしまひます。 

しかして將門一行は、「廿九日を以て、豊田郡鎌輪の宿に還」つてまゐります。 

まあ、ここでは悪行のし放題ですね。敵方軍勢ならまだしも、國分寺や國分尼寺までも攻略して辱めてゐます。これではますます印象を惡くしていきますし、このあたりで、庶民からも問題視されはじめたのではないでせうか。 

*常陸國府は、現茨城縣石岡市総社の石岡小学校あたりとされてゐます。鎌輪の宿は、(五)《堀越の渡しの戰ひ》を參照のこと。 

 

*さて、常陸國府攻略後、將門のなかで決定的な轉換がなされました。 

「時に、武藏權守興世王、竊かに將門に議して云く、一國を討つと雖も公の責め輕からじ、同じくは坂東を虜掠して、暫く氣色を聞かん」、と言つて、これは、おそらく將門のま眞意を探り探り口にしたことだらうと思ふのですが、「將門報じ答へて云はく、將門が念ふ所ただにこれのみ」、と、これまた直截とは言へない言ひ方で、應じてしまふのでありました。 

以後、坂東八國(常陸・下総・上総・安房・下野・上野・武藏・相模)を手中にし、國印と鍵奪はうといふことになりました。手始めは、下野國府でした。つづいて上毛野の國府に移りました。巫女が現れ、八幡大菩薩の使ひと稱し、「天皇の位」を平將門に授けるとされたのは、この場面でありました。菅原道眞の名も登場し、「將門を名づけて新皇と曰ふ」ことになりましたが、なんだか怪しいものが感じられてなりません。 

*はたして、この成り行きといふか處置に異議を唱へて諫言したのが、將門の弟將平でした。彼は、この地で學問を敎へてゐた菅原道眞の息子の一人、菅原景行のもとで學んでゐたのであります。現實の波にもまれてゐると見えなくなつてゐることが、この將平には分かつてゐたのでありますね。 

現常総市大生郷(おおのごう)町の三郎天神(大生郷天滿宮か?)がその學問所だつたやうですから、是非訪ねてみたいです。 

それででせうか、巫女の言葉の中に菅原道眞が登場するのは? 

*上野國府は、群馬縣前橋市元総社町の、宮鍋神社と総社神社のあらりと推定されてゐます。 

 

*それと、新政權の構想は省きますが、「王城」の場所は、確認したいです。が、はつきりとはしてゐません。 

「王城を下總國の亭南に建つべし」とあるところから、石井營所だといふのが最も有力です。現茨城縣坂東市の岩井の中根あたり、或いは島廣山と呼ばれるところださうです。 

が、他にも、同縣守谷市の相馬氏の居城あとである守谷城趾公園。入口に、「平將門城趾」の石碑があるさうです。 

また、將門の館跡といはれる、取手市岡の大日山。ここでは、將門が影武者にかこまれて朝日を拝んだので、朝日御殿と呼ばれたといふ。 

それと、ぼくが先日訪ねた、千葉縣佐倉市の將門山。將門が城を築き、愛妾の桔梗と住んだといふ。 

さらに、同縣市原市の古都辺(こつべ)は、都を築いた地を意味し、將門が都を築いたところだといはれる。近くに、大仏を造立したと伝えられる奈良の地がある。

 

*いやはや、そんなこんなで騒いでゐるうちに、都は大混乱。『將門記』によれば、社寺の將門調伏がおこなはれ、成田山新勝寺なんて、その手先となつて護摩を焚いたのでありませう! 

將門は、天慶三年(九四〇年)正月中旬には、相模から常陸國へ移動し、そこでどういふわけか、「皆諸國の兵士等を返し、僅かに遺る所の兵、千人に足らず」といふ状況でした。そして、その隙に乗じて攻めてきたのが、どこから湧いたか藤原秀郷と組んだ貞盛でありました。 

 

(十)《下野の戰ひ》 天慶三年(九四〇年)二月一日 「此の事を傳へ聞き、貞盛竝びに押領使藤原秀郷等、四千餘人の兵を驚かして、忽ち合戰せんと欲す」。けれども、實際に行はれたのは、將門に知らせずに獨斷で戰つて負けた新皇副將軍多冶經明と坂上遂高との戰闘でありました。 

*ただ、「敵地下野の方(方面)に超え向ふ」だけですので、場所の特定はむずかしさうです。 

 

(十一)《川口の戰ひ》 同日、未申の刻、敗走する敵を追ひ、貞盛、秀郷は川口村を襲撃。ここで新皇將門は迎へ撃ち、「新皇聲を揚げて已に行き、劒を振ひて自ら戰ふ」けれども、敗走させられてしまひます。 

*川口村は、現茨城縣結城郡八千代町水口と推定されてゐます。何度も出てきた鎌輪の宿とも近い場所です。 

 

(十二)《北山決戰》 同年二月十三~十四日 「貞盛等、命を公に奉じて、將に件の敵を撃たんとす。所以に、群衆を集めて甘き詞を加へ、兵類を調へて其の數を倍し、同年二月十三日を以て、強賊の地 下総の堺に着く」。 

まあ、これが權力者といふか、體制側の人間のやることなんでせう。しかし、「新皇は弊敵らを招かんと擬して、兵使を率ゐて、辛嶋の廣江に隠」れ、「しばらく辛島郡の北山を帶して、陣を張りて待」ちます。 

天慶三年(九四〇年)二月 「十四日未申の尅を以て、彼此合戰す。・・・はじめ順風を得てゐた新皇ですが、「不幸にして吹下(かざしも)に立ち、身命を棄ててかかつてきた貞盛、秀郷と合戰。「現に天罰ありて、新皇は暗に神鏑に中りて、終に託鹿(たくろく)の野に戰ひて、獨り蚩无(しゆう)の地に滅しぬ。」 

*北山は、「現茨城県坂東市の上岩井、駒跿(こまはね)、辺田あたりと推定されているが、・・地元では、坂東市岩井の國王神社の北約五〇〇メートルの所の北原を推す人が多い」といふところです。 

 

*將門の滅亡は、天慶三年(九四〇年)二月十四日、新政權が整ふまもなく、平貞盛と藤原秀郷との連合軍によつて追ひ詰められた死でした。その死は、このやうに、後の傳説に彩られるに先立つて、中國の古傳説などを引用して暗示的に語られてゐますけれども、「獨り」滅んでいつたことの寂寥感をかみしめつつ、將門を偲びたいと思ひます。(おしまひ) 

 

今日の寫眞・・『將門記』〈藤原秀郷との三度の合戰想定圖〉。《下野の戰ひ》と《川口の戰ひ》と最後の《北山決戰》ですね。