十二月廿七日(火)癸未(舊十一月廿九日 雨降つたりやんだり

 

今日の讀書・・いやあ、今年もあと數日。一應〆なければなりませんね。ぼくの〆とは、もちろん讀書でありまして、繼讀中のものはたくさんありますけれど、シリーズものは別にしまして、けりをつけたいのは數册です。 

その一つ、今日、『蜻蛉日記』 を讀み終はらせました。八月二十九日に讀みはじめましたから、ちやうど四か月かかりました。まあ、ほんとは數日で讀んでしまひたいのですが、くづし字解讀といふか、くづし字リテラシーの向上が第一なので、毎日つづけることのはうに重點をおいてゐます。 

「古典文學は影印本で」 がぼくの大な(?)讀書計畫の支柱の一本ですから、來年も繼讀していきたいです。といつても、はじめたのは、二〇一三年一月に 「中仙道を歩く」 がはじまつたその四月、くづし字を學びだしてからです。

 

最初は、『古今和歌集』 の「序」でした。それから以後、覺えのために書き出してみますと、讀んだ順に、土佐日記竹取物語平仲物語、方丈記、野ざらし紀行、鹿島詣、笈の小文・更級紀行、一休蜷川狂歌問答、雨月物語、西行物語、小倉山荘色紙和歌(百人一首)、俵藤太物語、和歌威徳物語、おらが春、落し咄、篁物語大和物語多武峰少将物語鳴門中将物語、そして、蜻蛉日記

 

といふことで、けつこう讀んでゐますね。下線を引いたものはほぼ年代順で、これが本道・本筋なんですが、寄り道のはうが多いです。 

ところが、伊勢物語が抜けてゐます。小松英雄先生のご本とともの讀んだので、そのまま途中で中斷してしまつたやうです。早めに讀んでしまひませう。 

それにしてはまだまだリテラシーは向上してゐるとは言へません。血沸き肉躍る面白本もぼくの讀書には缺かせませんし、道はまだほど遠いやうです。 

 

さう、氣になつてゐるあとの一册は、『平將門故蹟考』 です。將門紀行 現地探訪》 とともに大晦日までには〆てしまひませう。 

それとともに、懸案の弓道をどうするかで、幹事の中本さんに電話し、退會することをお傳へしました。ペースメーカーを入れたからだで、弓を引き絞ることが困難であることが分かつたからです。手續きなどは必要ではありませんでした。帰郷後、約五年間樂しませていただいて感謝です。 

 

將門紀行 現地探訪》(四)

 

石下驛集合が九時三九分でした。「將門公苑」 を出たのが一〇時一五分。そしてミューズをあとにしたのが一一時四五分。一〇分足らずで、今日の紀行の本番、「將門史跡めぐり」 のスタート地に到着いたしました。はたして、晝飯前に回れるのでせうか? 

 

どなたかが、「将門所縁の地は東北から近畿にまで拡がっているが、なんと言っても茨城が圧倒的に多い。そのすべてが、史実とは言いがたいものがあるようだが、将門に対する人々の思いの程をうかがい知ることが出来よう」、と書いてゐました。 

ところが、また他の本には、「水戸斉昭が幕末に征夷の勅を、江戸の頭ごしに貰って、自分が宗家に代って将軍家たらんとしたときに、京への機嫌とりに片っ端から將門祠を淫祠と同一視し取り毀したせいで、肝心な茨城には各地に將門古戦場と伝承される個所もあるのに、あまりぱっとしない」、と書かれてありまして、明治になつてからの將門に關する扱ひ方をみると、ぼくは後者のはうが、歴史の眞實に迫つてゐると感じてゐます。それでもその數は多いのでせうね。 

 

さて、「將門史跡めぐり」 ですけれど、そのウオーキングマップにはつぎのやうに書かれてゐます。 

「今から一一〇〇年前の東国は、坂東と呼ばれる未開拓の地でした。その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが將門であったと伝えられています。將門は新しい時代を予期した馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にしました。そうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、豊かな郷土の実現を間近にして敗れてしまいました。 

將門伝説には、その夢の実現を見ずに散った悲劇性と庶民の願望が、今日まで語り継がれています。」 

ふ~む。うまくまとめてゐますね。まあ、「坂東市 ロマンの里をたずねて・・・」 の史跡めぐりですからね、觀光案内としたら無難といへるでせう。 

 

その最初の史跡が、國王神社です。拝殿わきの廣場でタクシーから降り、杉木立のなかに建つ社殿を訪ねました。 

「常緑樹に囲まれた入母屋造りの拝殿、幣殿、本殿からなる社殿は、質朴な中に神さびた雰囲気が感じられます」 とある通りですね。素朴な感じの神社です。 

 

それにしても、ぼくたち三人、他の方が見たら禮儀知らずと思はれてしまふかも知れません。好奇心のはうが先立つてゐますから、鵜の目鷹の目で眺めまはし、歩き回り、探索の手をやすめません。まあ、歴史探訪ですから、もちろん祀られたや人物に敬意をはらはなければ見えてこないし、聞こえてこないものがあることは百も承知してゐます。はい。 

 

國王神社は、平將門の終焉の地に靜かに佇む古社です。ここは、「将門が宿敵平貞盛・藤原秀郷と最後の決戦を行い破れた戦場の、将門戦死の地と言われている」場所です。將門最期の地といふわけですね。 

最初に最期の場所を訪ねるのもなんですが、終焉の地でどのやうに敬はれてゐるかを知ることがその人物を知る第一でせう。それで、ちよいと長い引用になりますがその歴史をみてみます。 

 

「國王神社の歴史 祭神に将門公を戴く國王神社の歴史は、決して平坦なものではありませんでした。 

桓武天皇の5代目の孫でありながら、関東の地で兵を挙げ、新皇を名乗ったことから『朝敵』と見做された将門公は、表立って敬うことを許されない存在でした。 

将門公の功績が朝廷に伝えられて、朝敵の認識が解かれたのは、時代が下った徳川幕府のときです。 

武勇の神として祀られた神田神社は、江戸総鎮守として江戸の鬼門を守り続けます。 

しかしその後、明治新政府によって、過去に朝敵であったことが再び問題視されるようになります。将門公は、政府によって神田神社の祭神から外されてしまうのです。 

國王神社でも、供養の行事として始まった十四日講を、信仰する氏子の家でひっそりと行わなければならなくなりました。それから、将門公の評価が回復するまでには、第二次大戦を経た昭和末期まで待たねばなりませんでした。 

戦後、旧・岩井市の市制施行を期に、郷土の英雄を偲ぶ『将門まつり』が始まります。4年後、大河ドラマによって将門公の生涯・闘いが広く国民の知るところとなります。これがきっかけとなり、さらに8年を経て、明治政府によって遷座させられていた将門公が、神田明神の祭神として復帰を果たしたのです。 

時代とともに、評価が揺れ動いた将門公。京から遥か東国で、農民と共に生き、共に開拓し、共に闘った、数々の軌跡。坂東武者・将門公の“弱きを助け強きを挫く”精神が、これからも永く慕われ続けることは間違いありません。」 

 

先ほど、郷土館ミューズで見た、「平將門坐像」 ですが、本來この神社に安置されてゐるものです。この社殿もともに茨城縣文化財に指定されてゐます。(つづく) 

 

今日の寫眞・・一枚目は、さしま郷土館ミューズから「將門史跡めぐり」に移動中のタクシーにて。筑波山が見えます。おそらくこのあたり一面は、將門をふくめ、多くの騎馬武者が走り回つたところなんでせう。その面影がなくはありません。 

つづいて國王神社。社殿全景、その内陣と參道。 

五枚目は、郷土館ミューズに、「將門復権に尽くした織田完之と岩井の將門史跡」 と題したパネルの載せられた寫眞の現物です。