十二月廿八日(水)甲申(舊十一月卅日 晴

 

今日は今年最後の外出になるだらうと思ひ、牛久にうなぎを食べに行きました。 

けれども、それではあまりにも見え見えなので、將門紀行關連の旅といふことにして家を出ました。目指すは將門が攻め滅ぼした常陸國府のある石岡です。 

ついでに、松戸の伊勢丹で「年末古本市」といふのが開かれてゐるやうなので寄つて行くことにしました。しかし、十階催事場の一畫を借りた小さな市でしたので面白くありません。ところが、八階にジュンク堂が入つゐて、これが一フロアを占めてゐるのです。新刊書にほとんど興味がないのでさつと歩き回つただけでしたけれど、たいした質と量です。

 

それはさておいて、牛久です。お店の名前は「たちばな」さん。着いたのは一二時半。調理に三〇分かかると言はれて待ちました。ほんものだからこそかかる時間でせう。サラリーマンの食事時にぶつかり、もつと待たされるかなと思ひましたが、お約束の三〇分後には到着。待つた甲斐があつて美味しいうな重をいただくことができました。 

腹ごしらえができ、氣分は常陸國府です。でも、勝田驛行きの電車は、一三時一一分の次は四七分です。まだ時間があつたので、その前の土浦驛行に乘り込み、また乘り繼いで石岡驛に到着。車中、左手に筑波山が見え隠れしてゐました。

 

まづ、南口に出て、鹿島臨海鐡道の新鉾田驛までの交通を調べました。古い地圖を見てゐたので、鹿島鐡道が通つてゐるものとばかり思つてゐたら、すでに廢線となつてゐたのです。それで、バスを調べたのですが、途中の鉾田(鹿島鐡道があつた時の終着驛)まではあつても、その先の新鉾田驛行のバスは數本しかありません。それがこれから出るといふのですが、乘つてしまつたら國府をめぐれません。泣く泣く見送るしかありませんでした。

 

實は、石岡までの列車の中で、いつその事、水戸驛まで行つて、鹿島臨海鐡道經由で、鹿島神宮驛、そこからJRで佐原驛、成田驛、そして京成線で歸宅しようかと計畫したのであります。でも、水戸ははじめてですし、どうせなら見學もしたいし、今回はショートカットしてしまはうと考へたわけなのであります。 

それで、一應、鉾田停留所まで行くバスの時間だけは確認しました。 

 

さて、石岡驛北口に出て、タクシーで國府跡まで向かひましたところ、着いたのは、石岡小學校正門前でした。まあ、歩いてもそれほどかからない距離ではありましたが、それだけゆつくりと時間をかけて見て回ることができました。 

正門のそばに、欅が聳え立つ丘の上に石碑が見えます。上ると、「常陸のみやこ一千有餘年之地」とあります。といふことは、國府の碑ではなささうです。 

ところが、説明板を見たら、驚きました。

 

「この石岡小学校敷地一帯は、今から約一三〇〇年前に常陸国の国衙が置かれ・・・常陸国の政治・経済・文化の中核的な役割を果たしました。しかし、この繁栄を極めた古代都市は一〇世紀半ばに起こった平將門の乱によって破壊され、云々」とありまして、暗に責めてゐますね。さう、將門の仕打ちをです。 

たしかにね。ぼくも 『將門記』 を讀んでゐて一番氣になつてゐたところです。いくら將門が義侠心に富んでゐたとしても、「常陸国衙から 『国の乱人』 として指名手配された」極惡人・藤原玄明(はるあき)をかくまつたすゑ、一緒になつて常陸國府を壊滅させてしまふなんて、許せることでせうか。それとも、懐に入つて来た窮鳥・玄明にもいいところがあつたのでせうか。 

これを境にして、「平氏一族との私闘は終焉となり、將門の眼差しは、私から公に向かうことに」なつていくのであります。 

 

ところで、その常陸國府跡ですけれど、小学校敷地内にある、「ふるさと歴史館」 のわきに建つてゐました。「常陸國府跡」と刻まれてゐます。 

生憎と、「ふるさと歴史館」 は今日から休館で、ガラス越しに見えてはゐるんですが、欲しい資料に手が届きませんでした。校庭には二宮金次郎の石像まであつて、校風が感じられました。 

それにしても、このたびは考へさせられました。國分寺跡には行けませんでしたが、そこの「定額の僧尼」たちが命乞ひをしたほどに將門軍は残虐を極めたやうなのです。古代の戰闘はそんなものだと割り切つてしまへるものなら簡單なんですが。 

 

 歸りは驛まで歩きました。「石岡の陣屋門」のそばを過ぎ、脇道に入つた照光寺の裏手に「常陸府中藩主松平家墓所」を訪ね、つづいて、登録有形文化財となつてゐる「平松理容店」の前を通り、まちかど情報センターがあつたのでお聞きしました。「ふるさと歴史館」 が閉まつてゐたのでいただけなかつた資料のことを話すと、係の男性が奥に入つていつて持つてきてくれました。「国指定史跡 常陸国府跡」 といふパンフレットです。いやあ、ありがたい。お茶まで出してくれて、なんだか來てよかつたなあと疲れも飛んでしまひましたです。はい。 

 

鉾田行きバスは、四時一〇分、定時發車。パスモは使へず、金額を聞いたら一〇七〇圓でした。しばらくは、もとの線路跡を走りました。ですから、對向車は同じ會社のバスのみ。途中からは、しかし、一般道に合流し、暗くなりはじめた道路を、けつこう疾走しました。 

右手には霞ヶ浦が見えはじめました。少し後方には筑波山が。そして眞横にはなんと富士山のシルエットです。しかも同時に眺められるなんて、けつこうめずらしい景色ではないでせうか。

 

ものの本によりますと、鹿島鐡道は、二〇〇七年四月一日に廃止。「輸送量が激減したため、廃線を迎えた」、といひます。ちなみに、路線は、石岡驛から鉾田驛まで、二七・二キロ。一七驛だつたさうです。 

*補足・・茨城県内陸部と海沿い(鹿島灘)の地域を横断する路線で、霞ヶ浦北岸を通る。地図上では、JR常磐線と鹿島臨海鉄道大洗鹿島線を結ぶように見えるが、終点の鉾田駅は大洗鹿島線の新鉾田駅とは道のりで一キロ以上離れており、大洗鹿島線とは接続していない。 

 

乗客は、途中の玉造でぼくひとりになりました。あたりは眞つ暗闇。尾瀨の歸りのバスを思ひだしてしまひました。一七時一七分、終點の鉾田に到着。降り立つたはいいのですが、どちらに歩いたらいいのでせう。タクシーの看板があつたので、すぐにに呼んで来てもらひました。ほつとしました。まあ、晝間だつたら歩いたでせうがね。  

新鉾田驛ではJR成田驛までの通し切符を買ひました。ここもまだパスモが使へません。プラットホームは高架の上。一七時四七分發の列車で鹿島神宮驛へ。その間、ゴルゴルゴルのディーゼルカーです。景色は何も見えません。そして、三〇分の待ち合はせでJR鹿島線に乘り換へ。ここで列車の新舊の違ひにびつくり! ここには確實にはつきりと目に見えからだで感じることのできる、二十年か三十年の文化的落差があります。JR鹿島線は最新鋭の電車です。それに乘つて佐原驛。さらに銚子驛から來る千葉驛行きの電車で成田驛に無事到着することができました。

 

京成成田驛からの特急は八時ちやうど發。空港からの人々で滿席でしたが、どうにか座ることができて、大佐倉驛にも停まりまして、靑砥驛には九時過ぎ到着。夕食は、例のすし屋に入りました。我慢したおかげで實に美味しかつたです。めでたしめでたし。 

さう、一日歩いて、一二三〇〇歩でした。

 

今日の寫眞・・①牛久のうな重(竝)。②「常陸のみやこ一千有餘年之地」碑。「常陸國府跡」碑。④「平松理容店」。聞いた話では、石岡には登録文化財に指定された、昭和初期の建物が多いさうです。それは關東大震災の復興を手傳ひに行つた大工たちが、覺えてきた技を用ゐて家を建てたからだといふことです。⑤廢線となつた鹿島鐡道跡地に入つていくところ。⑥霞ヶ浦のかなたに筑波山と富士山がどうじに見える。⑦新鉾田駅プラットホーム。さいごは、⑧鹿島神宮驛發のJR鹿島線。