正月十七日(火)甲辰(舊十二月廿日 晴

 

一月十七日、今日で、心臟の手術をしてちやうど四十年になります。三十歳までしか生きられないでせうと醫師から言はれ、その三十歳の時に手術をし、以來人に自慢できないやうな人生でした。來月で七十歳になります。あとはおまけのおまけです。世間様に迷惑にならないやうに生きて行こうと思ひます。 

『雷電本紀』 を讀んでゐて、テレビの大相撲を見てみました。意識して見たのは何年ぶりでせう。いや、四十年ぶりかも知れません。手術の前、靜岡中央病院に入院中、同室の林のおぢいちやんが貴乃花がすきで、一緒に見たことがあつて以來かも知れません。おぢいちやんは元國鐡の機關士で、亡くなつたと聞いて、安倍川を越えた手越のお宅を訪ねたことがありました。 

 

今日の讀書・・飯嶋和一さん著、『雷電本紀』 繼讀。時は天明年間(一七八〇年代)、江戸に大火が多かつたことがあらためて分かりました。それと、一揆は地方のみならず、江戸においても、「天明の打ちこわし」 があつたことを知りました。『定本武江年表』(ちくま学芸文庫) によれば・・・ 

「五月にいたり、米穀次第に乏しく、其価遺踊(きやう)し、市中の舂米屋(つきこめや)も售(あきな)ふ事ならずして門戸を閉す。二十日より二十九日迄、雑人、米肆・酒屋、其余米穀を貯へたる家々を打毀す事夥し (此時、一人の大若衆ありて、ともに家作・器材を打こはす。其働き、飛鳥のごとし。しかも美童にてありしとぞ)。」 

その他、『江戸東京年表』(小学館)によれば、「天明の打ちこわしは、発生当初は参加者の間には盗みをしない、火の用心をし、打ちこわしの対象(米屋などの豪商)の近隣に迷惑をかけないようにする、という規律があった」。と言はれてゐます。それは、「飛鳥のごとき美童の一人の大若衆」が指揮したのかも知れません。

 

『雷電本紀』 では、これを踏まえてでせう、打ちこわしが次第に暴徒化しはじめた時に、「一人の大若衆」がつぶやく言葉がいい。 

「人は動物とは違い、何らの秩序なしに自ら律して生きられるほど強いものではない。それは飼いならされた者ほど当り前のことだ。しかし、人というものは、上からの不当な規律や他から強いられた秩序なしにも、生きうるだけの強さを備え持っていると、そう本当に信じた者がいたとしたら、みるみる単なる盗人の群れに変じて行く打ちこわしの群衆を見ることは耐えがたいことだったに違いない。」 

これだから、飯嶋さんは一味もふた味も違ふと思ふのであります。ほかにも・・・ 

「助五郎は気持ちよく生きたかった。どこかで誰かが私欲から不当なもうけをたくらみ流れが滞ることがあれば、その分だけ多くの誰かが困ることになる。自分の身代だとか、店だとかよりも、他の大勢の人々を生かすことを心がけよ・・・」とか、 

「商人であれ町女房であれ、男であれおんなであれ、何によらず、初々しさを失った時、人は急に光を失う。」 

 

今日の寫眞・・大飢饉のきつかけとなつた淺間山噴火と「天明の打ちこわし」の畫像。ひげがないのは手術前、駒越海岸のは退院後、中央病院の看護婦さんら來訪。ひげはすぐはえてきました!