正月廿九日(日)己酉(舊正月二日 薄曇り

 

今日の讀書・・飯嶋和一さんの 『神無き月十番目の夜』 を讀みつづけましたが、内容が重いので、ちよつとばかしきついです。 

《千葉市を再発見しよう!》 を書きながら、つい猫とぢやれついてしまひました。 

 

千葉市を再発見しよう!》(三)

 

それで、心は逸りましたが、そこは團體行動の悲しさ、後回しにされて、次は、〈千葉市ゆかりの家・いなげ〉 といふ「家」に行くといふではありませんか。でも、永田さんがすでに訪ねることを傳へてあり、お待ちくださつてゐる方がをられるといふのを聞いては、ぼくも我が儘を引つ込めざるを得ませんでした。 

それで、國道を折れて、淺間神社の大きな鳥居の脇道を入つて行きました。すると右手の高臺の上に、昔風の家があり、みなさん入つていかれました。 

そこはなんと、〈愛新覺羅溥傑假寓〉 だつたといふ家でありました。そこで、日當りのよい和室に通され、お待ちくださつてゐたふつくらとしたご婦人によるご説明をお聞きしました。 

 

「明治中期以降、保養地として多くの文人墨客が訪れた稲毛は、海岸線の松林を中心に、別荘・別邸が建てられました。この家もそのうちの一つであり、大正時代初期の意匠をよく伝えていて、その中で現存する非常に貴重な遺構です。平成9年に武見氏より市が取得し、同年4月から〈千葉市ゆかりの家・いなげ〉として公開しています。 

また、昭和12年には、中国清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の実弟である溥傑(ふけつ)夫妻が、半年ほどここに住まわれ、新婚生活を送りました。このような歴史的事実もあることから、保養地としての稲毛の歴史を今に伝える貴重な和風別荘建築として、千葉市地域有形文化財(建造物)に登録されています。」 

 

まあ、こんなところで、ラストエンペラーの弟さんの話を聞くとは思ひもよりませんでした。が、それ以上に、大正時代の家がそのまま現存してゐることにぼくはいささか感動しました。現在は立て直してしまつたわが堀切の昔の家にも似たたたずまいでして、懐かしい氣持ちになりました。廊下から庭に出られる造りがなんともいいですねえ。 

ところで、溥傑さんが新婚生活をここで送られたといふ、その御夫人は、浩(ひろ)さんといふ、なんだか男性のやうな名前なんですが、明治天皇の母、つまり孝明天皇の奥方様の出られた中山家の血筋の方なんですね(補注一參照) 

 

溥傑さんは、また書道家でもあつて、床の間にはその自自筆の書が展示されてゐました。それには、「稲毛に居を構えた当時の思いを詠んだ漢詩がしたためられていて、〈ゆかりの家・いなげ〉と溥傑夫妻のつながりを偲ばせる作品です」。一九九〇年(平成二年)に、〈旧神谷伝兵衛稲毛別荘〉オープンにあたり、來訪されたときに詠まれ、かつ、溥傑本人から千葉市へ贈られたやうなのであります。 

「書」は寫眞をごらんください。ここでは、その譯を寫しておきます。 

 

「過ぎ去った歳月を顧みて再び千葉に来る。世の中はすでに大きく変わっているが、余齢をもって稲毛の旧居を訪れる。新婚当時は琴瑟相和して仲が良く、まるで夢のようだった。短い期間ではあったが想い出すとつい我を忘れてしまうほど幸せだった。 

愛しい妻の姿と笑顔は今は何処に。昔のままの建物と庭を見ていると恋しい情が次々と湧いてくる。君と結婚したその日のことが目の前に浮かび、白髪いっぱいになった今にかつての愛の誓いを思い出すにはしのびない。 

再び千葉海岸稲毛旧居を訪れて感あり二首を詠む。 歳次庚午仲夏 溥傑」 

(愛新覚羅溥傑・浩著、福永主編『愛新覚羅溥傑・浩書画集』より引用) 

 

すごい意譯のやうに感じますが、切々とした思ひがよく傳はつてきますね。 

 

*補注一・・愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ 1907416- 1994228日)は、清朝最後の皇帝で、のちに満洲国皇帝に即位した愛新覚羅溥儀の実弟。清朝における地位は醇親王継嗣、満洲国軍人としての階級は陸軍中校(中佐に相当)。中華人民共和国では全国人民代表大会常務委員会委員、全国人民代表大会民族委員会副主任。立命館大学名誉法学博士。書家でもあり、流水の如き独特の書体は流麗で人気が高かった。 

満洲国皇帝に即位した溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向をもっていた。しかし日本の皇室典範及び皇室典範増補は、皇族女子の配偶者を、皇族、王公族、または勅旨により特に認許された華族に限定していたため、たとえ満洲国の皇弟といえども溥傑との婚姻は制度上認められなかった。そこで侯爵嵯峨実勝の長女で、昭和天皇の遠縁(父親同士が母系のまたいとこ、八親等)にあたる嵯峨浩(さがひろ)との縁談が関東軍の主導でまとめられ、1937年(昭和12年)43日に東京の軍人会館(現・九段会館)で結婚式が挙げられた。当時溥傑は日本の陸軍歩兵学校に在籍していたため、ふたりは千葉市稲毛に新居(愛新覚羅溥傑仮寓)を構えた後、同年9月に溥傑が、10月には浩が満洲国の首都新京へ渡った。明らかな政略結婚だったが、ふたりの仲は円満で、1938年(康徳5/昭和13年)に長女・慧生、1940年(康徳7/昭和15年)に次女・生の二女に恵まれた 

1945年溥儀とともにソ連に抑留され、のち戦犯として中国の撫順収容所にはいる。その後、1950年に中華人民共和国に送還され、戦犯とされて撫順戦犯管理所とハルビンの戦犯収容所で中国共産党による「再教育」を受けた。 

1954年、長女・慧生が国務院総理の周恩来に「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出し、感動した周により日本にいる妻子との文通を許可される。しかし、1957年(昭和32年)12月、学習院大学に進学していた慧生は、交際していた同級生の大久保武道と伊豆半島天城山でピストル心中した(天城山心中)。 

 

*補注二・・歸宅後、妻に、愛新覺羅溥傑さんと浩さんの〈假寓〉を訪ねてきた話をしたら、すぐさま、「その二人娘の長女つて、伊豆ので心中したのよね。映畫もできたと思ふは」、と言はれ、すぐ調べました。映画は『天城心中 天国に結ぶ恋』(一九五八年、心中の翌年!)といふ題で、愛新覺羅慧生さん役の主演女優が、三ツ矢歌子さんでした。いやあ、懐かしい、と言ふより、つうと言へばかあと答へてくる妻に驚きました! 

 

*補注三・・天城山心中とは、19571210日に、伊豆半島の天城山において、学習院大学の男子学生である大久保武道(八戸市出身、当時20歳)と、同級生女子の愛新覚羅慧生(当時19歳)の2名が、大久保の所持していた拳銃で頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見され、当時のマスコミ等で「天国に結ぶ恋」として報道された事件。 

尚、2013年(平成25年)9月、溥傑の次女である福永生から関西学院大学博物館開設準備室に、愛新覚羅溥傑家関係資料(愛新覚羅溥傑・妻の浩・娘の慧生・生の各氏に関係する貴重な写真、原稿、書、書簡、書籍や、溥傑並びに浩夫人の実家である嵯峨侯爵家・旧正親町三条家に関係する資料など)が寄贈されている。 

 

今日の寫眞・・〈ゆかりの家・いなげ〉の座敷と庭先にて。 

「平成27107日に放送されたNHK総合『歴史秘話ヒストリア』は、溥傑夫妻の絆をテーマとしており、番組内で、『千葉市ゆかりの家・いなげ』が、夫妻が新婚時代を過ごした場所として紹介されました」といふ、その番組のちらしと、新婚時代、新聞か雑誌に載つたご夫妻の寫眞。 

五枚目は、溥傑さん自自筆の書。